私には尊敬する道場の先輩がいます。その方が住職をしておられるお寺には禅堂といって坐禅のためのお堂があります。実はそのお堂は松下幸之助氏によって建てられた禅堂です。
続きを読む教える、諭す、親しませる
先生のことを教諭といいます。最近あまり聞かれなくなった言葉に、「諭す(さとす)」という言葉があります。読めない人もいるのではないか。代わって「教える」という言葉は頻繁に使われています。
続きを読む信心銘の話〈その8〉
根本にたちもどると秘密が手に入るが、映されたものを追うならば大本を見失う。ほんのしばらくでも、こちらの方が映されたものを押し返させば、眼前の空虚な世界の上にでてしまう。眼前の空虚な世界がくるくる変わるのは、すべて迷いのせいだ。心理を探すには及ばない。ただ君の考えをストップさせればよろしい。相対の考えに腰を据えてはならぬ。ゆめゆめそんなものを追い求めてるではないぞ。よしあしが現れたとたん、入り乱れて本心を見失うのだ。
続きを読む信心銘の話〈その7〉
一つのところに達しなければ、両方とも失敗だ。 有るものを払いのけると何にもなくなってしまい、空についてゆけば空を見失う。 説明が多く分別が多いほど、いよいよ事実にぴったりしない。 言葉を断ち分別を尽くせば、どこも普遍妥当せざるはない。
続きを読む信心銘の話〈その6〉
一つのものとして心が落ち着くと、あとかたもなく自然に何もなくなってしまう。心が騒ぐといって静止させることになれば、静止させるほどますます心は騒ぐ。動と静の両端にかかわりあうだけのことであり、どうして一つのところがわかろうか。
信心銘の話〈その5〉
対象的なものを追っかけてはならず、空という考えにとどまってもいけない。
信心銘の話〈その4〉
道は大空のようにまどかで、足らぬところも残るところもないのだ。より好みするからこそ、不自然なことになるのである。
信心銘の話〈その3〉
つくの離れるのという心こそ、人を疲れさせる病気にほかならぬ。道の秘密を見分けぬならば、心を静めようとしても無駄だ。
続きを読む作為的な計らいを止めよ
余計(餘計) 余分と余計の違いをご存じですか。「余」という字は、旧字体で「餘」と書き、食べ物の意の食と、のびるという意の余からなり、「食べ余し」というのがその語原です。
続きを読む砂地には水がしみこむんです
今日は以前も来てくださった方々ですが、8人ほど坐禅と法話を聞きにまた普門軒に来てくださいました。日頃は誰も来ない普門軒ですが、秋の本当に心地の良い時間に、みなさんがお寺にお越しになり、とてもいい時間を過ごせました。
続きを読む信心銘の話〈その2〉
好き嫌いさえしなければ、すっぱりとすべて透明だ。毛の先ほどのずれができると、天地ほどもかけはなれるのだ。目のあたりに見たいのなら、それについて行くという気持ちがあってはならぬ。
続きを読む信心銘の話〈その1〉
本当の道は、難しいことがない。取捨選択さえしなければよいのだ。
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令和元年秋期彼岸施餓鬼会
昨日、令和元年秋期彼岸施餓鬼会法要も無事にお勤めすることができました。200年以上続くお寺の行事がこの令和の御代に入っても、なんとか続けられた事は、参列して下った檀家のみなさまのおかげです。
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