
約2ヶ月ブログを休んでおりました。2番目の子供が生まれ、ガタガタしており、なかなか集中できず、申し訳ありませんでした。今回、ブログ再開として、毎日読んでいる般若心経を現代語にしてみました。今回はその第1弾です。何度か改変していこうと思っています。
信心銘の話〈その15〉

心を見失うから寂と乱の対立を生み出すが、気づけば何の良し悪しもない。およそ対立なるものは、わけもなくこちらが物をはかるからである。夢と幻想と空虚な華を、どうしてわざわざ掴もうとするのか。手に入れるとか失うとか、正しいとか正しくないとかいうことは、一挙にさっぱり手放すことだ。
信心銘の話〈その14〉

六官の対象に逆らわなければ、元々ブッダの悟りと変わりないのだ。智者はことさら何もしない、愚者は自分の縄で自分を縛っている。存在はおよそ変わったものなぞないのに、人は訳もなくっつきたがる。自分の心で自分を使うことは、とんでもない間違いではないのか。
続きを読む信心銘の話〈その13〉

本性のままで大道と一致し、ゆらりゆらりとのんびり歩いて何の悩みもなくなる。心を一つの対象にくくりつけると真理にはぐれ、心が沈みこんで自由を得ぬ。自由を得ぬから精神をすり減らすのである。どうして道に遠ざかったり、近づいたりする必要があろうか。同じ一つの乗り物を手に入れたいと思うなら、六官の対象に逆らってはいけない。
信心銘の話〈その12〉

本性のままで大道と一致し、ゆらりゆらりとのんびり歩いて何の悩みもなくなる。心を一つの対象にくくりつけると真理にはぐれ、心が沈みこんで自由を得ぬ。自由を得ぬから精神をすり減らすのである。どうして道に遠ざかったり、近づいたりする必要があろうか。同じ一つの乗り物を手に入れたいと思うなら、六官の対象に逆らってはいけない。
続きを読む信心銘の話〈その11〉
大道はそれ自体が広々としていて、歩きやすいとか歩きにくいとか言うことがない。考えの小さい人は小さいことを心配して、道を急げば急ぐほど、いよいよ道が遠くなる。物にとらわれると尺度を失い、きっと間違った道に入り込むものだ。手を離せば、元々自然で、道そのものは行くこともとどまることもない。
信心銘の話〈その10〉
主観は客体が消えるとともに消え、客体は主幹が亡くなるのに伴ってなくなる。客体は主観に対して客体であり、主観は客体に対して主観である。両者の区別を知りたければ、もともと同一の空だと知れ。同一の空がそのまま二つの部分と変わらず、あまねく無数のすがたを包んでいる。精緻と粗雑の差もないのに、どうして一方だけの片よりが認められようか。
信心銘の話〈その9〉
相対は、絶対から出てくるものだ。絶対をも固執してはならない。心が起きさえしなければ、どんな存在にも罪はない。罪がなければ存在はないし、起きなければ心にはならぬ。





あけましておめでとうございます。今年の初めのブログです。何かを書こうと思ってたのですが、私の人生もすでに半分を折り返している身です。はやりこの世の中のためのことを書くべきと思います。