その自然には、その根拠が消えてしまっていて、何も比べることができない。動きを停めようにも動きがなく、静止を動かそうにも静止がない。2つの立場が成り立たない以上は、1つの立場がどうして成り立とうか。とことんまでつきつめられて、そこには手本というものが残っていない。
続きを読む暮らしの舞台、暮らしの鏡。それが建物
鎌倉時代に禅僧は、禅という新しい宗教の教えとともに、書道、山水画、茶道、武道、食など、禅の教えや世界観を表現したいろいろな文化ももたらしました。その中に寺院建築と庭園があります。
信心銘の話〈その17〉
眼が覚めている時は、どんな夢も見ることはない。自分の心が変化しなければ、様々な存在はさながらに一つである。さながらに一つであるその本体は不可思議で、ごろんとしていて手がかりがない。そこでは、様々の存在が同じに見られて、自然の状態に帰るのだ。
続きを読む信心銘の話〈その16〉
眼が覚めている時は、どんな夢も見ることはない。自分の心が変化しなければ、様々な存在はさながらに一つである。さながらに一つであるその本体は不可思議で、ごろんとしていて手がかりがない。そこでは、様々の存在が同じに見られて、自然の状態に帰るのだ。
続きを読む般若心経の口語訳を作ってみたいと思ったきっかけ
私はこれまで、お経は、内容よりも、それを一身に大きな声で読むことが、まずは大切だと思って参りました。しかし、ふとしたきっかけで、いろいろな方々が般若心経の現代語訳、口語訳をなされておるものを読み、本当に頭の下がる思いと、大きなショックを受けました。
続きを読む般若心経 現代語訳その1
約2ヶ月ブログを休んでおりました。2番目の子供が生まれ、ガタガタしており、なかなか集中できず、申し訳ありませんでした。今回、ブログ再開として、毎日読んでいる般若心経を現代語にしてみました。今回はその第1弾です。何度か改変していこうと思っています。
信心銘の話〈その15〉
心を見失うから寂と乱の対立を生み出すが、気づけば何の良し悪しもない。およそ対立なるものは、わけもなくこちらが物をはかるからである。夢と幻想と空虚な華を、どうしてわざわざ掴もうとするのか。手に入れるとか失うとか、正しいとか正しくないとかいうことは、一挙にさっぱり手放すことだ。
信心銘の話〈その14〉
六官の対象に逆らわなければ、元々ブッダの悟りと変わりないのだ。智者はことさら何もしない、愚者は自分の縄で自分を縛っている。存在はおよそ変わったものなぞないのに、人は訳もなくっつきたがる。自分の心で自分を使うことは、とんでもない間違いではないのか。
続きを読む信心銘の話〈その13〉
本性のままで大道と一致し、ゆらりゆらりとのんびり歩いて何の悩みもなくなる。心を一つの対象にくくりつけると真理にはぐれ、心が沈みこんで自由を得ぬ。自由を得ぬから精神をすり減らすのである。どうして道に遠ざかったり、近づいたりする必要があろうか。同じ一つの乗り物を手に入れたいと思うなら、六官の対象に逆らってはいけない。
信心銘の話〈その12〉
本性のままで大道と一致し、ゆらりゆらりとのんびり歩いて何の悩みもなくなる。心を一つの対象にくくりつけると真理にはぐれ、心が沈みこんで自由を得ぬ。自由を得ぬから精神をすり減らすのである。どうして道に遠ざかったり、近づいたりする必要があろうか。同じ一つの乗り物を手に入れたいと思うなら、六官の対象に逆らってはいけない。
続きを読む信心銘の話〈その11〉
大道はそれ自体が広々としていて、歩きやすいとか歩きにくいとか言うことがない。考えの小さい人は小さいことを心配して、道を急げば急ぐほど、いよいよ道が遠くなる。物にとらわれると尺度を失い、きっと間違った道に入り込むものだ。手を離せば、元々自然で、道そのものは行くこともとどまることもない。
続きを読む日本人として生きたい
私がこの道に進んだ目的は「日本人として生きたい」ということでありました。私は昭和47年の生まれですから、いわゆる戦後教育を受けてしまった世代です。
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