普門軒の禅のミカタ

普門軒のブログ:毎週月・金に更新、できれば・・・

目に見えるものごともそのまま受け入れる

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私たち現代人の多くは、この世の中は、最終的には「目に見える」ものごとでできあがっており、目に見えるからこそ、目に見える形として認識し、説明し、証明し、理解できるとしている、そして同時に、今は目に見える形で認識できなくても、いずれ、将来、ちゃんと目に見える形で認識することができると思っているのではないでしょうか。

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人間は思考して、行動し、また行動して、思考する。生きるとはその繰り返し

「生きる」とは、命を保ち、活動していることです。「息する内」というお話もいたしました。私たちは命を授けられている以上、その命を保ち、活動して行かなくてはなりません。ではその活動内容とはなんでしょうか。それは「思考」と「行動」だと言えます。

生きる力とは行動力と思考力

生き方に対して疑念が生まれる

人は思考して、行動します。また行動して、思考します。その積み重ねた経験や取得した方法が「あなたの生き方」となるわけです。つまり行動力と思考力は「あなたの生きる力」なのです

私たちを命を保ち、活動していくことで「生きた力」を身につけ、「生き方」を身につけていきます。

しかし、命をいただいてから、生きていくうちに、その身につけた「生きる力」や「生き方」に対して、疑念が生まれてくる時があり、訪れる時期が誰しもあります。

だから生きるには大きな見方、観、道理が必要となる

その疑念とは、これまでの「生き方」つまり、その思考法と行動法に対しての疑念というよりも、もっと自分の周囲を超えた大きな、深い、世界観への疑念かもしれません。「生き方」というのはHow toです。あくまでも方法です。「生きる」にはその方法をつかさどる世界観が必要なのです。ものの見方、ものの捉え方のことです。

具体的思考よりも、大きな方針、規範といいますか、そういう世界観を決める必要があります。このブログで私がよく申します、コンピュータのOSのようなものです。その大きな〈観〉とか〈道理〉を決め、OSである〈観〉や〈道理〉に則った、アプリケーションである行動法と思考法を身につけるのです。

力"強さ"は師との出会いにある

この〈観〉とか〈道理〉というものは一個人が、その短い人生で見定めることはとても難しいでしょう。だから私たちにはそれを導いてくれる〈師〉との出会いが必要なのです。この師との出会いがあるかないかで、「生きる力強さ」というものの質がずいぶんと違ってきます。師との出会いは「生きる」ことにとって非常に重要な要素なのです。

師に出会い、師を信じ、師に学ぶ

禅的生き方変えたい場合のお話をいたします。まず、師を見つけることから始めた方がいいと答えます。つまり禅宗の和尚さんです。しかしこれがなかなか難しい。禅宗坊主といえども、昨今は禅宗坊主らしい和尚さんが非常に少ないです。私もひとりの禅宗坊主として申し訳ない限りです。ですから和尚さんと言っても、場合によっては、書籍などを通して、過去の和尚さんを師と仰ぐこともやむを得ないでしょう。

そして次にその師を信じるということが必要となります。この師匠は生きていく段階、段階で変わっていくこともあります。師といえる方々は、自分の限界、能力もわきまえている方々ですから、これからのあなたに必要な場合、次はこの師につきなさいと道を示してくれます。

身につけるのではなく、学ぶのです。そしてその上で、行動を身につけます。その後は先ほどお話しした過程と一緒で、結果、自分の生き方が変わっていきます。

つまり、禅なら禅の思考を、キリスト教ならキリスト教えの思考、マルクス主義ならマルクス主義の思考を学んでいけば、時間はかかりますが、行動も変化していき、結果、あなたの生き方も禅的生き方であったり、キリスト教的生き方であったり、マルクス主義的生き方になっていくでしょう。

一般的には思考を身につけ、それから行動を身につけ・・・?

忘れてはならないことは思考のみになっては、生き方は決して変わらないということです。言行一致を目指さなくてはならないことです。思考か行動かどちらか一方では、単なる研究対象、興味の対象です。高等教育機関の指導者を見ればおわかりでしょう。生き方が変わるまでのことはないでしょう。現代の高等教育には思考活動はありますが、行動の方は重要視されておりません。だから大学教授の面々をみれば、その学問を通して得た思考は、実際の己の行動内容と一致していると言うことは皆無です。

私は大学院で京都の町家や町並みをどうやって維持していくのかということを学んでいたのですが、そこで授業をされている、研究をされている教授方はことごとく町家には住んでおらず、現代建築に住んでおられました。こういうことはよくある話です。

禅の場合、まずは行動を身につける

話がそれましたが、禅宗のお坊さんの場合、修行道場という場で、まず行動を身につけます。修行の初期段階の多くの場合、思考の方は重要視されません。むしろじゃまなものとされます。例えば、掃除をする。掃除という行動はしますが、なぜ掃除する必要があるのかという思考はしません。食事はとても静かに食べる。静かに食べるという行動はしますが、なぜ静かに食べるのかという思考は大切にしません。ただただ行動のみを身につけされられます。それが何年かたつと、体もなれていき、自然と効率よく掃除ができ、静かに食事ができるようになります。つまり行動力がついてくるのです。

それから思考を身につける

行動力がついてくると「だから掃除をするのか」「だから食事は静かに食べるのか」と、自然と思考し始め、行動を理解できる思考力がついてゆきます。 思考力がついてくると、さらに行動しようという意欲がわき、さらなる行動力がついていきます。さらなる行動力が、さらなら思考力を呼び覚ますのです。そうしていく内に、これまでの行動と思考(生き方)から、知らぬうちに生きる力が身についていきます。

今日はこのあたりにしておきます。

信心銘の話〈その18〉

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その自然には、その根拠が消えてしまっていて、何も比べることができない。動きを停めようにも動きがなく、静止を動かそうにも静止がない。2つの立場が成り立たない以上は、1つの立場がどうして成り立とうか。とことんまでつきつめられて、そこには手本というものが残っていない。

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信心銘の話〈その17〉

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眼が覚めている時は、どんな夢も見ることはない。自分の心が変化しなければ、様々な存在はさながらに一つである。さながらに一つであるその本体は不可思議で、ごろんとしていて手がかりがない。そこでは、様々の存在が同じに見られて、自然の状態に帰るのだ。

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信心銘の話〈その16〉

f:id:fumonken:20200608202201j:plain眼が覚めている時は、どんな夢も見ることはない。自分の心が変化しなければ、様々な存在はさながらに一つである。さながらに一つであるその本体は不可思議で、ごろんとしていて手がかりがない。そこでは、様々の存在が同じに見られて、自然の状態に帰るのだ。

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般若心経の口語訳を作ってみたいと思ったきっかけ

私はこれまで、お経は、内容よりも、それを一身に大きな声で読むことが、まずは大切だと思って参りました。しかし、ふとしたきっかけで、いろいろな方々が般若心経の現代語訳、口語訳をなされておるものを読み、本当に頭の下がる思いと、大きなショックを受けました。

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般若心経 現代語訳その1

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約2ヶ月ブログを休んでおりました。2番目の子供が生まれ、ガタガタしており、なかなか集中できず、申し訳ありませんでした。今回、ブログ再開として、毎日読んでいる般若心経を現代語にしてみました。今回はその第1弾です。何度か改変していこうと思っています。

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信心銘の話〈その15〉

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心を見失うから寂と乱の対立を生み出すが、気づけば何の良し悪しもない。およそ対立なるものは、わけもなくこちらが物をはかるからである。夢と幻想と空虚な華を、どうしてわざわざ掴もうとするのか。手に入れるとか失うとか、正しいとか正しくないとかいうことは、一挙にさっぱり手放すことだ。

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