普門軒の禅のミカタ

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わかった、わかったって、本当にわかったの?

f:id:fumonken:20190822125450j:plain多くの場合、私たちは「わかる」という意味を、頭で理解したり、自分の言葉に言い直したり、説明できることを「わかる」ととらえております。

わかるということは、説明できるかどうかではない

実際的、実践的に行動に移せるかどうか

「わかる」ということについて、鈴木大拙博士はNHKラジオの『婦人の時間』という番組で、このようなお話をされております。

アナウンサー「・・・はー、うん、うん、であのー・・・そこが大変わかったようで)・・・(笑)」

鈴木「そうなんだ。わかったようでわからんようなんだ。ところが、 わかったようで、わからんと言うところに、 何かわかったものがなければ、 そう言えんのだ。わかったようで、わからんと言う、ところに、何かわかっておるものがなければ、そう言えんのだ」

NHKラジオ『婦人の時間』より


そして「わかった」証拠は、そのわかったことが知的に説明できるかではなく、実際的、実践的に行動に移せるかどうかが、禅の見方です。つまりそのわかったことが実践できていなければ、実際はわかっていないと見るのです。

禅的に「わかる」ということは、知的に理解できたかよりも、むしろ体験的に実感できたかどうかを「わかる」としているのです。たとえうまく他人に説明できなくても、実感できていれば「わかっている」と言えるのです。支柱夢中、丸呑みに実感できれば、それはわかったと言っていいのです。