彼岸会法要のことを正式には「彼岸会施餓鬼法要」と言い、お彼岸の時期に行う施餓鬼法要という意味です。施餓鬼棚に飾られた山海の六味、山盛りの餓鬼飯、独特な節回しの『大施餓鬼』の唱和は、禅寺ではわりあい単調な普段の法要とはひと味違います。
彼岸とは「あの世」のこと
「あの世」とはどんなところなの?
「あの世。この世」という言葉があります。実は「あの世」というのが「彼(か)の岸」、「彼岸」のことなのです。
「あの世」とは、お釈迦様の教えとその実践によって苦しみの世から離れた、苦しみにとらわれない世のことです。浄土、極楽とも言い換えられますが、禅宗では、「あの世」とは場所や空間だけではなく、苦しみにとらわれない境地、気持ち、心持ちと捉えた方がいいでしょう。
苦しみにとらわれない境地と春分と秋分の日
お釈迦は 苦しみにとらわれない境地を「中道」とおっしゃいました。苦しみにも楽しみにも偏らないという境地のことです。苦しみにとらわれないということは、逆に楽しみにもとらわれてはならないのです。両極端にとらわれない、偏らないから「中道」なのです。
春分と秋分の日は、太陽が真東から昇り、真西に沈み、朝と夜の時間は等しくなります。この偏ってない季節に会わせ、お釈迦様の「中道」の教えとその実践に接し、心がける期間がお彼岸なのです。
〈人〉として〈餓鬼〉に施す
仏教は輪廻の思想から生まれました。〈餓鬼〉という命の状態は骨と皮だけで、どんなに食べて、飲んでも常に飢えと渇きに苦しみます。前世で欲深かった命は餓鬼に輪廻するのです。
私たちは〈人〉という命の状態にあり、苦しみもあるが楽しみもある命の状態です。そしてこの〈人〉という命の状態にあるときだけ自力で仏道修行が積み、苦しみにも楽しみにも偏らないという境地、「彼の岸」に向うことができるのです。
「施餓鬼」とは「餓鬼に施す」と書き、飢えと渇きに苦しむ〈餓鬼〉を、〈人〉である私たちは仏道修行として、哀れみの気持ちをもって助けることを指します。その行い自体が苦しみにも楽しみにも偏らないという境地「彼の岸」に向かうということなのです。