普門軒の禅のミカタ

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信心銘の話〈その3〉

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つくの離れるのという心こそ、人を疲れさせる病気にほかならぬ。道の秘密を見分けぬならば、心を静めようとしても無駄だ。

「本来への自覚」をしなければ、ただ心を静めているだけだ!

違順相爭う 是を心病と爲す
玄旨を識らざれば 徒らに念靜を労す

つくの離れるのという心こそ、人を疲れさせる病気にほかならぬ。道の秘密を見分けぬならば、心を静めようとしても無駄だ。
『禅語録16 信心銘 梶谷宗忍』

違順相爭う 是を心病と爲す

「人間は考える葦である」と言ったのは17世紀のフランスの数学者で思想家のブレーズ・パスカルです。これには前文があります。「人間は自然のうち最も弱い足のひと茎に過ぎない。だが、それは考える葦である」。人間は孤独で最も弱いのですが、考えることができることに、その偉大さと尊厳があると言うような意味です。

人間はとにかく考える。確かに考えてしまうのが人間です。その考え方の”癖”として、順と逆、善と悪、得と損など二元対立で計らいをもって考えてしまう。この「二元対立」の克服が『信心銘』の隠されたテーマであります。常に自分の中に対立的な意思があって、いつも心の中で争っているのですが、これを「心病」と三祖僧璨鑑智禅師はおっしゃいました。

この心の病を悩みと言ったり、ノイローゼと言ったりします。「玄旨」とは仏教の本当のところという意味で、つまり”本来への自覚”のことです。「念靜」とは心を静めるということです。「本来への自覚」しなければ、ただ心を沈めているだけになってしまう。”本来の自分への自覚”したいという意思を持って、心を静めなさいということです。ここで坐禅が出てくるのです。

玄旨を識らざれば 徒らに念靜を労す

姿勢を整え、呼吸を整え、心を整えるという〈坐禅〉は何にもとらわれないことであり、何にもとらわれない稽古なのです。

よく禅のことを、何も思わないということとして聞き違えている人が多いのですが、決して木や石のように無神経になることではありません。「玄旨」をもって無神経になると言うことが重要なのです。仏教の本当のところ、仏教の深いところがわからないと、ただ何も思わんと勘違いして、心を静めているだけになってしまうのです。

何も思わないけど、寒くなれば服を着ます。暑くなれば服を脱ぎます。何も思わないけど、人の悲しみに会えば、つい心配する。人の喜びを聞けばついついこちらも嬉しくなる。それが自然なことです。人が死んでも何も思わない。人が試験に合格しても何も思わない。「私は憎愛にはとらわれない」といってもそれは”本来の自分への自覚”ではありません。

何もとらわれないとは、その時、その時に自然に的確な行動ができることなのです。とらわれることなく、ゴミが落ちていればすぐに拾い、食事が出されれば「いただきます」と手を合わせ、バスの中で老人を見ればすっと席をゆずる。

何もとらわれていないから自然に的確な行動ができる。ここが「玄旨」であり、仏教の本当のところです。