普門軒のブログ 禅という見方

禅と真摯に向き合えば、あなたの生き方が必ず変わる

信心銘の話〈その3〉

f:id:fumonken:20191027210228j:plainつくの離れるのという心こそ、人を疲れさせる病気にほかならぬ。
道の秘密を見分けぬならば、心を静めようとしても無駄だ。

本来の自分への自覚をしなければ、ただ心を静めているだけだ!

違順相爭う 是を心病と爲す
玄旨を識らざれば 徒らに念靜を労す

つくの離れるのという心こそ、人を疲れさせる病気にほかならぬ。
道の秘密を見分けぬならば、心を静めようとしても無駄だ。
『禅語録16 信心銘 梶谷宗忍』

二元対立で見る癖を止めよ

「人間は考える葦である」と言ったのは17世紀のフランスの数学者で思想家のブレーズ・パスカルです。これには前文があります。「人間は自然のうち最も弱い足のひと茎に過ぎない。だが、それは考える葦である」。人間は孤独で最も弱いのですが、考えることができることに、その偉大さと尊厳があると言うような意味です。

人間はとにかく考える。確かに考えてしまうのが人間です。その考え方の”癖”として、順と逆、善と悪、得と損など二元対立で計らいをもって考えてしまう。常に自分の中に対立的な意思があって、いつも心の中で争っているのですが、これを「心病」と〈三祖僧璨鑑智禅師〉はおっしゃいました。

この心の病を悩みと言ったり、ノイローゼと言ったりします。「玄旨」とは仏教の本当のところという意味で、つまり”本来の自分への自覚”のことです。「念靜」とは心を静めるということです。”本来の自分への自覚”しなければ、ただ心を沈めているだけになってしまう。”本来の自分への自覚”したいという意思を持って、心を静めなさいということです。ここで坐禅が出てくるのです。

意思をもって心を静めること

姿勢を整え、呼吸を整え、心を整えるという坐禅は何にもとらわれないことであり、何にもとらわれない稽古なのです。

よく禅のことを、何も思わないということとして聞き違えている人が多いのですが、決して木や石のように無神経になることではありません。「玄旨」をもって無神経になると言うことが重要なのです。仏教の本当のところ、仏教の深いところがわからないと、ただ何も思わんと勘違いして、心を静めているだけになってしまうのです。

何もとらわれないとは

何も思わないけど、寒くなれば服を着ます。暑くなれば服を脱ぎます。何も思わないけど、人の悲しみに会えば、つい心配する。人の喜びを聞けばついついこちらも嬉しくなる。それが自然なことです。人が死んでも何も思わない。人が試験に合格しても何も思わない。「私は憎愛にはとらわれない」といってもそれは”本来の自分への自覚”ではありません。

何もとらわれないとは、その時、その時に自然に的確な行動ができることなのです。とらわれることなく、ゴミが落ちていればすぐに拾い、食事が出されれば「いただきます」と手を合わせ、バスの中で老人を見ればすっと席をゆずる。

何もとらわれていないから自然に的確な行動ができる。ここが「玄旨」であり、仏教の本当のところです。