普門軒の禅のミカタ

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信心銘の話〈その4〉

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道は大空のようにまどかで、足らぬところも残るところもないのだ。より好みするからこそ、不自然なことになるのである。

本来の自分への自覚をしなければ、ただ心を静めているだけだ!

円なること大虚に同じ 欠ること無く餘ること無し
良に取捨に由る 所以に不如なり

道は大空のようにまどかで、足らぬところも残るところもないのだ。より好みするからこそ、不自然なことになるのである。
『禅語録16 信心銘 梶谷宗忍』

円なること大虚に同じ 欠ること無く餘ること無し

江戸時代、〈盤珪禅師〉の歌に

  古桶の 底ぬけはてて 三界に 一円相の 輪もあらばこそ

というものがあります。〈一円相〉とは○のことです。〈悟り〉や仏の真理の象徴となっています。

盤珪禅師は、私たちの心というものはちょうど漬物小屋にある古桶のようなものだというのです。古桶の底にはまだ漬物のぬかやカビが残っています。そこにはほこりや落ち葉がたまり目も当てられません。

そんな古桶もとうとう底がすぽーっとぬけてしまい、周囲の側材もバラバラになってしまった。そうしたら、丸い胴輪だけが残った。

盤珪禅師は古桶を私たちの心とたとえて読んでいます。私たちの心は生まれてこのかた、経験や体験、知識や地位などを積み重ねていったのかもわかりません。ちょうど古桶に残っているぬかやカビのようなもの。それは今だけではない。〈三界〉(過去、現在、未来)から積み重なっているのだと盤珪禅師はいうのです。 そして、そんな心の底がすぽーっと抜け落ちて、地位や名誉、立場までバラバラになってしまった。そうしたら、丸い一円相が現れたというのです。 

良に取捨に由る 所以に不如なり

「取捨」とは取る捨てる。やっぱり二元対立のことです。”本来の自分への自覚”とは欠けることもなく余ることもない円のようなものなのに、取るとか捨てるとか、そういう対立の観念を起こすから間違ってくる。つまり「不如なり」です。

分別を起こさず、何の計らいもなく行動すれば、何にも難しいことはない。このまま、ありのまま、本来、それだけです。

姿勢を整え、呼吸を整え、心を整え、「本来への自覚」をしなくてはならない。何にもとらわれない稽古、つまり禅であることが一番肝要だと三祖僧璨鑑智禅師はおっしゃるのです。