普門軒の禅のミカタ

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信心銘の話〈その5〉

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対象的なものを追っかけてはならず、空という考えにとどまってもいけない。

あり続けるものはひとつもない

有縁を逐(お)うこと莫れ 空忍に住すること勿かれ

対象的なものを追っかけてはならず、空という考えにとどまってもいけない。
『禅語録16 信心銘 梶谷宗忍』

有縁を逐うこと莫れ

〈縁〉というものは仏教の大事な考え方、ものごとの捉え方です。〈因縁〉〈縁起〉など、今でも日常の言葉として使われています。
この世の中すべてのものごとは、みな神様がお作りになった、人間の力や自然の力を超えた存在があり、その存在によってすべてつくられているという見方が一般的な宗教ですが、仏教は違います。
それなら、仏教の見方では、すべてのものは単なる論理もなく、あるがままの状態にあるかと言えばそうではないのです。
この世の中はあるがままの状態ではありません。この世の中にはちゃんと真理があって単にあるがままでもなければ、運命によって存在しているものでもない。
あらゆるものごとは因縁によって生じ、因縁よって動いている。それが仏教の見方です。

仏教でよくある例え話ですが、ここに籾という種があり、それを田んぼにまく。大地と水と日光と熱によって、種は発芽し、肥料とお百姓さんの愛情によって育ち、やがてお米という実を結ぶ。籾は〈因〉であり、お米は〈果〉です。じゃあ、大地や水や太陽などは何かと言えば、これらは〈縁〉なのです。因と縁によって果が生じる。これが仏教の見方です。

今の自分、今、目の前に広がる風景。すべては自分の意思〈因〉だけで生じているものではありません。いろいろな〈縁〉というものがあって、今の自分〈因〉、目の前の風景〈果〉が生じている。
そういう意味で〈縁〉というものは、自分の外にある力、自分以外の力といえます。つまり〈有縁〉とは、外の力、外にあるもののことです。

現代社会は有縁で充満しているが・・・

友達がスマホを買ったから、私もほしい。テレビでバナナダイエットを紹介すれば、私も食べないと。また手に入れたと思えば、また次のものが出てくる。こうやって自分の外のもごと縁を逐い回し、逐い回されことが「有縁を逐う」ということです。

今、私たちが生きている近代的社会は、物質社会とも言えます。もう少し言い換えたをかえますと、目に見えるものをことのほか尊ぶ社会です。新しい車、珍しい食事、変わった建物、便利なスマホ。目に見えるものは物質だけではありません。学説、金融、情報、保険、法律・・・。そういったものも明文化されているから尊ぶ対象となるのです。

ところが仏教の見方はそうではありません。外の世界に「ある」というのは、外の世界に「あるように見える」だけというのです。もう少しわかりやすく言うと、そんな外に「ある」ものは「あり続けない」と見るのです。

なるほど、川は昔からずっと流れ続けていますが、その川も昔から流れる筋やその量は終始変わり、流れている水も毎日違っている。そこに川は「ある」。でもそのまま「あり続けている」わけではない。あり続けているように見えるだけです。雨が降って水がたまり、高いところから低いところへ流れ、縁によって川となっているように見えるだけという見方です。昨日の川と今日の川はよーく見れば、全く違うのです。私たちの体も一瞬たりとも同じようにあり続けていません。

このようにすべてのものは一見、「ある」ように見えるけれども、「あり続ける」ことはない。本当のは「ある」んじゃないと見るのが仏教の見方なのです。そんな仏教の見方、つまり玄旨がわからないと、外の世界にはものごとが「ある」と信じ込んでしまう。「ある」ということ、つまり有縁にとらわれ、振り回されてしまうのです。しかし「本来への自覚」すれば、有の世界、物の世界、目に見える世界にそれほどとらわれなくなるのです。

空忍に住すること勿かれ

だからといって、「あるように見えるだけだ」という見方にとらわれていけないのです。この世のすべてはあるように見えるだけだ。この世はすべて空だ。すべて無常だ。学校もなければ、会社もない。勉強だって、仕事だってしなくていいんだと虚無になってはいけないのです。外のものにとらわれてもいけないが、虚無にとらわれても生けない。

あり続けることはないけれども、目には見えている。見えているけれどもあり続けない。あるがままにあり続けず、あり続けないままにあるということです。これが〈般若心経〉の『色即是空空即是色』です。有るにも無いにもとらわれてはいけないということです。