普門軒の禅のミカタ

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信心銘の話〈その7〉

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一つのところに達しなければ、両方とも失敗だ。 有るものを払いのけると何にもなくなってしまい、空についてゆけば空を見失う。 説明が多く分別が多いほど、いよいよ事実にぴったりしない。 言葉を断ち分別を尽くせば、どこも普遍妥当せざるはない。

一種通ぜざれば 両処に功を失す
有を遣れば有に沒し 空に隨(したが)えば空に背く
多言多慮 転た相応せず
絶言絶慮 処として通ぜずということ無

一つのところに達しなければ、両方とも失敗だ。有るものを払いのけると何にもなくなってしまい、空についてゆけば空を見失う。説明が多く分別が多いほど、いよいよ事実にぴったりしない。言葉を断ち分別を尽くせば、どこも普遍妥当せざるはない。
『禅語録16 信心銘 梶谷宗忍』

一種通ぜざれば 両処に功を失す
有を遣れば有に沒し 空に隨(したが)えば空に背く

一種平懷の二元対立のない「本来への自覚」できなければ、両所、二元対立、分別世界にとらわれて自由な動きを失ってしまう。有を捨てようとすれば有に埋没してしまい、空に従おうとすれば、空に背いてしまう。「本来への自覚」できない限り、いくら有を捨てようとしても、空に従おうとしてもだめだというのです。やはり一種平懷、「本来への自覚」しなくてはならいのです。

ノーベル文学賞を受賞された川端康成さんは記念講演の冒頭で、人から字を書いてくれと言われたら、この歌を書きます。ということから話し出されました。その歌とは、

春は花 夏ホトトギス 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり

道元禅師
そう感じることのできる私の心はすずしかりけり

実はこの歌は700年前、道元禅師が「本来の面目」と題して、日本の四季の美しさをお読みになった歌です。

本来の自分は春の花であり、本来の自分は夏のホトトギスであり、本来の自分は秋の月であり、本来の自分は冬の雪である、と感じることのできる私の心はすずしかりけりというのです。ここでいうすずしとは澄み渡った、とらわれのないという意味です。

春の花の匂いをかいで「いい匂いだなー」、夏のホトトギスの声を聞いて「キョッ、キョ、キョキョキョ」、秋の月1見て「明るいなー」、冬の雪に触れて「引き締まるなー」と素直に感じることができる。それは本来の自分が澄み渡って、とらわれがない。つまり四季と自分が一枚になっているからであるという歌なのです。

多言多慮 転た相応せず
絶言絶慮 処として通ぜずということ無し

人間は考える葦であるとフランスの哲学者パスカラルはおっしゃった。確かにそういう一面はあります。しかし、考えれば考えるほど、しゃべればしゃべるほど、問題はこんがらがってくるものです。こじれてしまう。あれやこれやと考えれば考えるほど道から外れて行って、ささいなことも複雑になってしまう。

何も思わない方がよろしい。何も言わない方がよろしい。何も思わず余分なことを言わないで置く方が、かえって問題はスムーズにいくものですね。

私の祖母は私が結婚をしたとき、二人が長く仲良くいる秘訣は何かとたずねたら、「いらんことは言わんこと」と教えてくれました。

何も思わないですむ自分になるための稽古が禅なのです。