普門軒の禅のミカタ

なぜ禅は世界から注目されているのか【月・金の朝更新】

信心銘の話〈その8〉

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根本にたちもどると秘密が手に入るが、映されたものを追うならば大本を見失う。ほんのしばらくでも、こちらの方が映されたものを押し返させば、眼前の空虚な世界の上にでてしまう。眼前の空虚な世界がくるくる変わるのは、すべて迷いのせいだ。
心理を探すには及ばない。ただ君の考えをストップさせればよろしい。相対の考えに腰を据えてはならぬ。ゆめゆめそんなものを追い求めてるではないぞ。よしあしが現れたとたん、入り乱れて本心を見失うのだ。

根に帰すれば旨を得 照に随えば宗を失す
須臾も返照すれば、前空に勝却す
前空の転変は 皆妄見に由る
真を求むることを用いず 唯須らく見を息むべし
二見に住せず 慎しんで追尋すること勿れ
纔に是非有れば 紛然として心を失す

根本にたちもどると秘密が手に入るが、映されたものを追うならば大本を見失う。
ほんのしばらくでも、こちらの方が映されたものを押し返させば、眼前の空虚な世界の上にでてしまう。
眼前の空虚な世界がくるくる変わるのは、すべて迷いのせいだ。
心理を探すには及ばない。ただ君の考えをストップさせればよろしい。
相対の考えに腰を据えてはならぬ。ゆめゆめそんなものを追い求めてるではないぞ。
よしあしが現れたとたん、入り乱れて本心を見失うのだ。
『禅語録16 信心銘 梶谷宗忍』

根に帰すれば旨を得 照に随えば宗を失す
須臾も返照すれば 前空に勝却す

禅の根本とは分別のないところつまり「不二」です。主観と客観。主体と客体、私とあなたとが一枚のところ、有がそのまま空であり、空がそのまま有ということ。これが禅の根本です。その根本を見失わなければ「旨を得」で、そこで初めて適切な行動ができるというのです。何にもとらわれなくなって、初めて智慧が出てくるというのです。

己の心が外に向かい、あれこれ分別し外からくる情報、外の相手、外にある理想について行き、振り回される「宗を失す」。間違ってしまうのです。

外に向かっている己の心を、内なる本来の自分に向けなければならない。本来の自分とはこれまでお話ししてきたとおり「一種平懷」、天地と自分は一枚だ。私とあなたは一枚だという境地です。
一瞬でも外の理想に向かった心を内なる本来に向け、根本に立ち戻れば、そこは「絶言絶處」なのです。

空にならないといけない、空に徹しなくてはならないという「~しなくてはならない」というのは「とらわれのある空」で、いくら空といってもなかなか本物の空にはならない。「欲があってはいかん、欲を捨てなくちゃいかん」と思えば思うほど、捨てたいという新しい欲が生まれてしまう。

そういう”観念的な空”を「前空」と言います。”観念的な空”に振り回されることは皆、妄見、勝手な理解になってしまう。

前空の転変は 皆妄見に由る
真を求むることを用いず 唯須らく見を息むべし

三祖僧璨鑑智禅師は「唯須らく見を息むべし」というのです。ただ思考をするのを止めればいい。ただ何も思うなというのです。

善悪、妄真、是非などの分別意識にとどまって真実を追究してはいけない。どうしても私たちは、私、あなた、これ、あれというように相対的な世界で暮らしているので、考えることが比較から区別、区別から差別、差別から対立とつながっていきます。憎いと可愛い、損と得、勝つと負ける、生きると死ぬ。常に自分の頭の中で2つが戦い続けるそれが妄見であり、二人の自分による迷いでもあります。

この信心銘に一貫して流れている真理は、この自分の中にある分別意識にとらわれるなということです。頭の中にわずかでも良い、悪い、これでいいのか、だめなのか。そういう考えにとらわれてしまうと、ハチの巣をつついたように妄想が次々にわいてきて、本来の自分を失ってしまう。

二見に住せず 慎しんで追尋すること勿れ
纔に是非有れば 紛然として心を失す

瑞巌和尚は、毎日、自分にこう呼びかけた。
「おい、主人公よ」
そして自分で答えた。
「はい」
また呼びかける。
「おい、しっかりと目を覚ますんだぞ」
「はい」
「おい、いつどこで誰かに欺かれるかわからんぞ」
「はい、はい」
こうした問答を生涯続けたという。

『無門関第12則』

これは禅の問答集である『無門関』の第12則、「瑞巌主人公」という公案です。
瑞巌和尚は坐禅をしながら、作務をしながら「おーい、主人公、目を覚ましておるかー、ぼんやりして人にだまされておらんかー」と言い、そして「はーい」と自分から答えていたという風変わりな和尚さんです。

ここで言う主人公とは物語の主人公でも、家のご主人という意味ではありません。人間一人ひとりの、主体的な人格のことです。つまり”本来の自分”のことです。
私たちは分別意識にとらわれてしまって”本来の自分”を見失ってしまう。そこで瑞巌和尚は「おーい”本来の自分”、目を覚ましているかー」と言い聞かせると同時に、大きな声で”本来の自分”が答える方法で、自らの覚醒を促したのです。

いいのか、だめなのか。まだあかんのか、今がいいのか。そんなことは心の中で考えず、とにかくただ「はい」と答えればいい。それで迷いはたちまち消える。そうすれば”本来の自分”になれる。

坐禅の坐の字は人、人、土と書きます。土の上に人が向き合って座っている形です。この人と人は誰のことでしょう。坐禅の場合、坐るとは分別意識にとらわれている自分と本来の自分が向き合って坐っているではないでしょうか。「おーい主人公」と叫ぶ自分と、「はい」と答える自分。それが座布団の上で一枚に、単つ(ひとつ)になった姿を示している「坐禅」なのです。