相対は、絶対から出てくるものだ。絶対をも固執してはならない。心が起きさえしなければ、どんな存在にも罪はない。罪がなければ存在はないし、起きなければ心にはならぬ。
二は一に由って有り 一もまた守ること莫れ
一心生ぜざれば 万法咎無し
咎無ければ法無し 生ぜざれば心ならず
能は境に随って滅し 境は能を逐って沈む
相対は、絶対から出てくるものだ。絶対をも固執してはならない。心が起きさえしなければ、どんな存在にも罪はない。罪がなければ存在はないし、起きなければ心にはならぬ。
『禅語録16 信心銘 梶谷宗忍』
東洋の「一」
二は一に由って有り 一もまた守ること莫れ
一心生ぜざれば 万法咎無し
禅では何も思わないところを「一」と言います。「一」という絶対無の何もないきれいな心の上に、分別意識、つまり迷いが出てくるのです。分別意識というのは、よく禅で例えられるのですが、ちょうど青い空に白い雲が湧き出てくるようなもので青い空自体ははじめから少しも変わっていない。その青い空が「一」です。
その青い空が、白い雲にとらわれてはならないわけです。だからといって青い空が大事だから、一切の雲を起こしてはならないと言うのではないのです。そこは「一もまた守ること莫れ」で、青い空ばかり固守しすぎると間違ってくるのです。
青い空に白い雲があることは自然なことで、自然、無為なることを拒否することは不自然なことです。また白い雲というのは湧き出てくるのですが、やがて消えるものでもあります。これもまた自然なことです。白い雲が湧いてこれば湧いたまま。また消えれば消えたまま放っておけばいい。
言い変えれば「一」というとらわれのない心の上に「二」という分別意識が湧いてくる。これは自然なことである。そしてその分別意識は湧いて出てくるのですが、やがて消えていくものでもある。これもまた自然なこと。分別意識が湧いてこれば湧いたままで、また消えれば消えたまま。放っておけばよいというのです。
平等とは気にならない、とらわれないこと
一心とは一念のことで分別意識のことです。万法とは森羅万象のことで一念も生じなければ森羅万象、みな咎無し。平等であるというのです。ここが禅の面白い見方なのですが、すべてが平等であるというのは、あってもなくても同じだというのです。
男も女も年寄りも若者も平等だと言うことは、男も女も無くなってしまう。年寄りも若者も無くなってしまう。平等とは対立意識、分別意識、迷いがなくなってします。分別意識がなくなるとこの世の中のものは何もかも無くなってしまう。咎が無ければ法無しとはこのことです。
また心が生じなければ心があっても無いのと同じ。心も無いのと同じであるという心境が「一」のことです。
絶対平等の世界、絶対無の世界。そういう世界、「一」を実感するというか、味わうというか、自覚することが大切で、坐禅はそのためにするのです。禅のいう平等とは近代的な意味である条件の平等のことではありません。全くもって次元が違います。
坐禅をして心の中に分別意識がなくなれば分別していた対象も無くなる。我も無ければ、世界も無くなる。何もかも無くなる。無であり、空である。この「無くなる」とは、言い換えれば、気にならなくなる、とらわれなくなるということです。そういう心境が禅や仏教における真理というものなのです。
咎無ければ法無し 生ぜざれば心ならず
能は境に随って滅し 境は能を逐って沈む
能とは見る主体であり、境とは見られる客体のことです。主体は見られる客体が無くなれば無くなる。客観の世界が無になれば、主体も自ずから無になり、主体が無くなれば、客観も自ずから無くなってしまう。禅のいう本来とは、こういう分別意識なの無い世界のことです。心が無分別で、無一物になっていることを「本来」というのです。
師匠のお寺で大きな行事があり、その手伝いをしていたときの話です。そこには師匠のアメリカ人の弟子も長い間お手伝いをされていました。彼は三年近くお寺に住み込んでいたのですが、そのときは実に十年ぶりの禅寺でした。その彼が茶礼(おやつの時間)の折りにとても興味深い話をしてくれました。
「建物はずいぶん変わりましたが、ここのお寺の空気は全然変わっていません」
その禅寺の空気とは如何なるものかたずねると彼はこう言いました。
「禅寺の暮らしは自然と人の境がありません。体と心の境がありません。そして哲学と生活の境がありません。だから自分に素直になれます」
みなさんが分別意識、対立意識、迷いにとらわれ、苦しみたくなければ、それは禅の暮らしをするだけです。分別、対立という境を無くすための暮らし方が禅寺にはあります。