主観は客体が消えるとともに消え、客体は主幹が亡くなるのに伴ってなくなる。客体は主観に対して客体であり、主観は客体に対して主観である。両者の区別を知りたければ、もともと同一の空だと知れ。同一の空がそのまま二つの部分と変わらず、あまねく無数のすがたを包んでいる。精緻と粗雑の差もないのに、どうして一方だけの片よりが認められようか。
境は能に由って境たり 能は境に由って能たり
両段を知らんと欲せば 元是れ一空
一空は両に同じ 斉しく万象を含む
精鹿(せいそ)を見ず 寧(なん)ぞ偏党有らんや
主観は客体が消えるとともに消え、客体は主幹が亡くなるのに伴ってなくなる。客体は主観に対して客体であり、主観は客体に対して主観である。両者の区別を知りたければ、もともと同一の空だと知れ。同一の空がそのまま二つの部分と変わらず、あまねく無数のすがたを包んでいる。精緻と粗雑の差もないのに、どうして一方だけの片よりが認められようか。
『禅語録16 信心銘 梶谷宗忍』
さらに東洋の「一」
境は能に由って境たり 能は境に由って能たり
境とは客体のことで、能とは主体のことです。客観の世界は主体があるから客観であり、主体の世界もまた客観があるから主体でる。眼が見るから見られる〈色(しき)〉の世界があり、耳が聞くから聞かれる音の世界があり、鼻が嗅ぐから嗅がれる匂いの世界があり、舌が味わうから味わわれる味の世界があり、体が触れるから触れられる世界があり、心が思うから思われる世界がある。
逆もまたしかり。すなわち主観と客観の関係が私たちと外の世界の関係なのです。自分という主観がなければ、この全世界、全宇宙という客観はない。禅ではこのように自分というものと全宇宙を同じレベルとしてみているのです。自分という主観が、この宇宙を創造している。だから禅では己の主体性をとても大切にしているのです。無一物中無尽蔵です。
両段を知らんと欲せば 元是れ一空
両断とは主体と客体のことです。主体客体にとらわれなければ「元是れ一空」。自分(主体)と世界(客体)はまったくひとつに溶け合ってしまう。これを鈴木大拙は「私がなければみんな私」とおしゃったと言います。
川端康成はノーベル賞の授賞の席で、日本人の美の心を端的に語った『美しい日本の私―その序説』という講演を行われた。
冒頭から道元禅師の歌を紹介し、明恵上人、親鸞聖人、一休禅師、良寛和尚について語り、日本の茶道、生け花、焼き物、庭、源氏物語、枕草子を語る。はじめから終いまで仏教の話ばかりです。彼から見れば仏教をのぞいて日本に文化はあり得ないということです。
日本の文化には必ずそこに仏教的なものがあり、禅がある。それは具体的に何かと言えば、「二つのものは一つになれる」ということです。
その講演の題「美しい日本の私」自体にも主客が一体、一如です。「日本の私」という表現。日本という客体と私という主体が「の」という並立助詞を用いるのです。ちなみに英語のタイトルは『Japan the beautiful and myself』というように、『and』を使い主体と客体があるままです。この表現の仕方がまさに日本的、禅的です。「二つのものを一つにしてしまう日本文化」。それが日本の文化です。日本の世界観です。
一空は両に同じ 斉しく万象を含む
精鹿を見ず 寧ぞ偏党有らんや
精とは精密なもの、鹿とは粗雑なものという意味です。偏党とは偏って与することで、精密、粗雑といった二元対立で見なければ、偏った見方がどうして生じましょうか。『信心銘』の冒頭の一句「但だ憎愛莫ければ 洞然として明白なり」と同じ意味です。
今、この瞬間、自分の置かれた状況を変えたいと思うなら、憎愛、精鹿、善悪、好き嫌いという二元対立の思考法を捨てなくてはならないと言えます。
しかし、なかなか自分の中にあるこの二元対立の思考、見方を捨て去るのは難しいです。その捨て方のひとつが「と」を「の」にするという方法です。
「と」を「の」にする
主体客体は一見、二つであるけれど、本来は一つのもので、その一つがまたそのまま二つとして見る。ですから「親と子ども」としてであってはなりません。「親の子ども」であり、「子どもの親」なのです。社長の社員であり、社員の社長。先生の生徒であり、生徒の先生。二つのものは、他が存在するから己が存在するのです。こういう世界観が日本であり、東洋であり、禅なのです。「美しい日本の私」なのです。