普門軒の禅のミカタ

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信心銘の話〈その11〉

f:id:fumonken:20200228062648j:plain大道はそれ自体が広々としていて、歩きやすいとか歩きにくいとか言うことがない。考えの小さい人は小さいことを心配して、道を急げば急ぐほど、いよいよ道が遠くなる。物にとらわれると尺度を失い、きっと間違った道に入り込むものだ。手を離せば、元々自然で、道そのものは行くこともとどまることもない。

大道体寬(ゆた)かにして 易無く難無し
小見は狐疑(こぎ)す 転(うた)た急なければ転た遅し
之れ執すれば度を失して 必ず邪路に入る
之れ放てば自然にして 体に去住無し

大道はそれ自体が広々としていて、歩きやすいとか歩きにくいとか言うことがない。考えの小さい人は小さいことを心配して、道を急げば急ぐほど、いよいよ道が遠くなる。物にとらわれると尺度を失い、きっと間違った道に入り込むものだ。手を離せば、元々自然で、道そのものは行くこともとどまることもない。
『禅語録16 信心銘 梶谷宗忍』

東洋の「一」とは二元対立を捨て去ったところにある

大道体寬かにして 易無く難無し
小見は狐疑す 転た急なければ転た遅し

大道とは至道無難の「至道」と同じ意味です。体とはそれそのものという意味で、ここでは大道そのものを指します。大道はもともと広くて豊かなものだった。「大道長安に通ず」という禅語があるように、「道」はもともと普く開かれており、寛大平等、十方三世です。

その道は易しいものでもなく、困難なものでもありません。やさしいと思えば、その瞬間に難しいことに思いが対立してしまう。難しいと口にすれば、その瞬間にやさしいことを望んで対立してしまう。「道」は難しくも無ければやさしいこともない。逆もまたしかり。

「道」を歩むには、考え込んではならない

小見とは浅知恵のことです。頭の中だけで、どうしたらよいのか、どうしたら救われるのか、どうしたら心がおさまるのだろうか、どうしたら迷いがとれるのだろうかと考え込んでしまう。日常の生活も顧みず、掃除もしないで、坐禅もせずに頭の中だけで考え込む。

それはまさに非常に疑い深い動物である狐のようなものだというのです。こうしたら悟れるだろうか、あーしたら悟れるだろうか。これが悟りなのだろうか。これは悟りではないのだろうか。あの本にはこう書いてある、あの人はこう言った・・・。実践もせずに頭の中で浅知恵をあれこれ働かせていてはいつまで経っても救われるわけがない。

計らいを捨てて、馬鹿になり馬鹿になって坐禅をするよりほかない。浅知恵を働かせて急げば急ぐほど遅くなる訳です。

だから何も考え込まないのが一番結構。何も考え込まずに掃除をすればいい。何も考え込まずに花を生ければいい。何も考え込まずに散歩をすればいい。何も考え込まずに絵を描けばいい何も考え込まずに坐禅をすればいい。

何も考え込まないことろに「あーこの心持ちだなー」「この感覚なんだなー」とわかってきます。わかると言うことは他人に説明できるということではありません。己の中で腑に落ちるということです。それでわかったと言えるのです。

之れ執すれば度を失して 必ず邪路に入る
之れ放てば自然にして 体に去住無し

「之れ」つまり、浅知恵にとらわれてしまえば、必ず邪路に入り込んでしまう。浅知恵をさらりと捨て、頭の中のいろいろな思いを全部、気にならなくなってしまえば、「体に去住無し」で、去ることもなければ、居座ることもない。「自然法爾」「無為自然」と言って、ありのままの姿が現れる。なるほどこれが人間の本性か。これが本心か、つまりこれが「本来への自覚」かとわかるというのです。

これは前回の「元是れ一空」ということです。二元対立という浅知恵が私たちを迷いの道と錯覚に引きずり込んでしまうのです。それを放ちなさい。捨てなければ、広い広い道といえどもいつまで経っても開かれることはないと、三祖僧璨禅師は『信心銘』を通して、一貫して私たちに言うておられるのです。