普門軒の禅のミカタ

なぜ禅は世界から注目されているのか【月・金の朝更新】

信心銘の話〈その12〉

f:id:fumonken:20200309061058j:plain

本性のままで大道と一致し、ゆらりゆらりとのんびり歩いて何の悩みもなくなる。心を一つの対象にくくりつけると真理にはぐれ、心が沈みこんで自由を得ぬ。自由を得ぬから精神をすり減らすのである。どうして道に遠ざかったり、近づいたりする必要があろうか。同じ一つの乗り物を手に入れたいと思うなら、六官の対象に逆らってはいけない。

性(しょう)に任ずれば道に合う 逍遙として脳を絶す
繋念(けねん)は真に率(そむ)く、昏沈は不好なり
好なれば神(しん)を労す、何ぞ疎親することを用いん
一乗に趣かんと欲せば、六塵を悪むこと勿れ

本性のままで大道と一致し、ゆらりゆらりとのんびり歩いて何の悩みもなくなる。心を一つの対象にくくりつけると真理にはぐれ、心が沈みこんで自由を得ぬ。自由を得ぬから精神をすり減らすのである。どうして道に遠ざかったり、近づいたりする必要があろうか。同じ一つの乗り物を手に入れたいと思うなら、六官の対象に逆らってはいけない。
『禅語録16 信心銘 梶谷宗忍』

「したがう」こと任せること

「性」に率(したが)う之れを道と謂う

「性」とは生まれたままの本来の自性、本質のことです。ここは押さえておかなくてはならないことですが、いわゆる性格のことではありません。もっともっと深いところにあるものです。生まれる以前の本質です。生まれてから着いた習慣や性格のことではありません。「逍遙」とは悠々自適、自由無礙ということです。その本性の無礙、何も思わないところに随うところが「自性清浄心」というのです。

孔子の言葉に「天の命之れを性と謂い、 性に率(したが)う之れを道と謂い、道を修むる之れを教えと謂う」とあります。

生まれたままの本性に任せば、自ずから道にかない、もう何も心配いらない。ありのままにゆったりとして自由無礙の境地に安住する。「本来への自覚」による境地です。

朝日とともに鳥の鳴き声とととに起き、神様仏様に感謝し、身の回りの掃除から始まり、詔勅をいただく。そしてそれぞれの仕事に就き、そこで一所懸命に働き、日の暮れるとともに帰路に就き、夕食をいただき、ゆっくりしてから眠る。このあたりまえの暮らしのことを悠々自適な暮らしというのです。自分の好きなように暮らすというのは禅においては悠々自適とは申しません。

なぜかと言いますと、これは好きなこと、これはやりたくないというような「自分」による判断は二元対立の暮らしであるからです。

何も思わんということ

「繋」とは結とか、つながるという意味で、「繋念」とは念に常につながっている、執着しているという意味です。だから真実にそむいてしまう。

見ざる、聞かざる、言わざる、思わざる、ただ黙って坐っておればいいんだ、そうすれば本性、真実、本来はつかめるんだと、そんなことばかり念じて、思っていれば、「何も思わん」ということを思い続けてしまう。それは無心ではなく、真に率くことになる。

僧璨禅師は何も思わん、何も思わんと言って、木か石のようになって坐り込むことを「昏沈」とおっしゃったのです。「昏沈」になると「不好」になるというのです。

何も思わんという本当のところをわかって何も思わん

かといって、何も思わん、何も思わんという思うから、自分の心は疲れはてるというのです。それが「好なれば神(しん)を労す」です。何も思わんということが、道に親しいことなのか、疎いことなのか。何も思わんということが、悟りなのか、迷いなのか・・・。

だからやっぱり何も思わんというそこのところを本当にわかって、何も思わんといかんということです。自分自身の精神を使い、それで疲れてしまっては、それは何か思っているというこ

となのです。

声聞、縁覚そして菩薩

か「一乗」とは「一仏乗」とも言い、大乗仏教の真理のことです。「乗」とは乗り物の事ではありますが、教えとか、導き、道と捉えてもいいでしょう。大いなる道、本当のところの教え、これが「一乗」です

法華経にこんな例え話がございます。

昔、インドのあるところに、一人の長者がいて、大きな屋敷に住んでいました。あるとき、長者がふと気づくと大きな屋敷の隅から煙が出ているのに気づきました。

「火事だー、火事だー」

と長者は驚いて外へ飛び出しましたが、さて何を持ち出そうかと我に返ると、家の中で子供たちが遊んでいたことを思い出しました。子供を助けださなきゃいかん、宝物よりも子供だ。

子供部屋にいってみると、子供たちはまだ部屋で遊んでいので、火事だぞ、速く逃げろーと言いました。しかし小さな子供たちはまだ火事がなんだか、危ないと言うことがなんなのかわかりません。思いあぐねて、長者は、

「さー、みんな外へ出てごらん。表にはいっぱいおもちゃがあるぞ、みんなあげるから早く外へ出て遊びなさい」

おもちゃと聞いた途端、我先にと子供たちは飛び出しました。屋敷は焼け落ちましたが、子供たちは無事であったというのです。

 

お釈迦様はこの世の中を「火宅無常」とおっしゃいました。すっかり火の手が回った屋敷のようなものだ言うのです。だからみんな火の回った世を捨てて外へ出なさい。火の手の回った屋敷という欲を捨てて、道を求めなさいとおっしゃいました。

しかし、子供と同じように私たちはそれぞれ自分の楽しみに酔いしれ、さっぱり外に出ようとしない。

そこでお釈迦様は「声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、菩薩」とおっしゃった。「声聞」とは師の声を聞く。すなわち教えを聞いて、真理を理解し、司会して実践をすることを言います。「縁覚」とは縁によって覚る。現実を観察しそこに含まれる真理を見いだし、見いだした本来を実践する。禅において声聞、縁覚を二乗といいます。

この二乗はそれぞれの人の能力、素質に合わせた方法をとりなさいとおっしゃっています。麻日に夢中になっている子供に、外にもおもちゃがあるぞと言ったことと同じです。

3つめの「菩薩」とは、見いだした本来、実践した本来を衆生、生きとし生けるものに広めることによって、さらに本来が深まる。他の成長をもって、自の実践となすのです。禅ではこの「菩薩」をもって一乗とみなします。

「六塵」とは『般若心経』にも書かれています。色声香味触法の6つの塵のことです。これは次回にお話ししましょう。