心を見失うから寂と乱の対立を生み出すが、気づけば何の良し悪しもない。およそ対立なるものは、わけもなくこちらが物をはかるからである。夢と幻想と空虚な華を、どうしてわざわざ掴もうとするのか。手に入れるとか失うとか、正しいとか正しくないとかいうことは、一挙にさっぱり手放すことだ。
迷えば寂乱を生じ、悟れば好悪無し
一切の二辺、妄りに自から斟酌(しんしゃく)す
夢幻空華、何ぞ把捉に労せん
得失是非、一時に放却せよ
心を見失うから寂と乱の対立を生み出すが、気づけば何の良し悪しもない。およそ対立なるものは、わけもなくこちらが物をはかるからである。夢と幻想と空虚な華を、どうしてわざわざ掴もうとするのか。手に入れるとか失うとか、正しいとか正しくないとかいうことは、一挙にさっぱり手放すことだ。
『禅語録16 信心銘 梶谷宗忍』
外の世界の対象にのまれてはならない
迷えば寂乱を生じ、悟れば好悪無し
一切の二辺、妄りに自から斟酌す
『迷えば寂乱を生じ、悟れば好悪無し』の「寂乱」とは静寂と動乱のことで、迷うと静かな心と乱れた心が対立してしまいます。三祖僧璨鑑智禅師この『信心銘』を通して、はじめからやかましいまでにこの二元対立はいかん、対立を捨てよとおっしゃっています。
憎いと可愛い、動くと止まる、あるとない。みんな対立です。だから『二見に住せず、憶しんで追尋すること勿れ』といいます。対立的な意識が生ずることが迷いの元であるから、迷いを捨てたければ、対立を捨てなければならないというのです。
こんなに心が乱れるから、ひとつ坐禅をして心を静かにしよう。ところがこの「静かに」がもう対立なんです。「静かに」にとらわれてしまって、またそこに対立が生じてしまう。つまり迷いの中にいるということです。
喧嘩両成敗が中世および近世の長きにわたり、日本の法原則の1つを為してきました。喧嘩に際してその理非を問わず、双方とも均しく処罰するという原則です。喧嘩においては片方が正しいという事はあり得ず、双方ともに非があるという理屈は、日本人にとって分かりやすく、また双方納得しやすいものであったのです。
しかしながら、西洋から近代法が日本にも取り入れられました。そこには訴える側、訴えられる側の対立的解決方法が影をひそんでいることはあきらかです。でもそこに日本的な調停というできる限り対立を小さくしようという努力や工夫があるのも、やはり対立には根本的な解決にはならないという、日本人の直感があるのだと思います。
『一切の二辺、妄りに自から斟酌す』の「斟酌」とは、思慮分別をもって酌みとることです。斟酌はどこまでも対立であり、ますます迷っていくのです。あーだろうか、こーだろうか、あーでもなければ、こーでもない。他人の腹の中まで探り、迷い込み、自分の処理も対立的に考えていってしまう。どんどんわからなくなってしまい、対立という泥沼に落ち込んでしまう。何が何でも勝たなくちゃいかん、裁判をしても勝たなくちゃいかん。これを迷いというのです。
夢幻空華、何ぞ把捉に労せん
得失是非、一時に放却せよ
『夢幻空華、何ぞ把捉に労せん』とは、すべての事柄はことごとく幻想である。とらわれてはいけない。つかまえきれるものではないという意味です。
『得失是非、一時に放却せよ』とは、損した、得したと言っても、良いと言われようが、悪いと言われようが、そんなものはすぐに手放してしまえ、捨ててしまえ、解き放て。この世の中には本当に自分の手の中に握れるような物は何一つない。あれもほしい、これもほしい。あいつが嫌い、この人が好き。
ただし誤解のないように。禅のミカタはあれもほしい、これもほしいと思うなと言っているのはありません。そう思うことはいいのですが、その思いにとらわれ続けてならないというのです。あれがほしいと思った。それが手に入った。それだけのことです。これが手に入らなかった。それをそれとして受け入れる。それだけのことです。ここがとても大切であり、禅的であるのです。
今日は暖かくなってほしいなーと思う。ところが今日は寒かった。だから寒いのは嫌だと思ってはならないのです。あー今日は寒いのか。それでいいのです。あの人と会うのは苦手だなー。今日はあの人に出会わなかった。だから良かったと思ってはならないのです。それをそれとして受け入れる。水が低きに流れるように、そのまま受けとめるということです。
そんなことにとらわれない心持ちを、どうやって体得できるのでしょうか。
これは次回のお話しいたします。