普門軒の禅のミカタ

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信心銘の話〈その17〉

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眼が覚めている時は、どんな夢も見ることはない。自分の心が変化しなければ、様々な存在はさながらに一つである。さながらに一つであるその本体は不可思議で、ごろんとしていて手がかりがない。そこでは、様々の存在が同じに見られて、自然の状態に帰るのだ。

眼若(も)し睡らざれば、諸夢自から除く
心(しん)若し異ならざれば、万法一如なり
一如体玄なり、兀爾(こつじ)として縁を忘ず
万法齊(ひと)しく観ずれば、帰復自然(きぶくじねん)なり

眼が覚めている時は、どんな夢も見ることはない。自分の心が変化しなければ、様々な存在はさながらに一つである。さながらに一つであるその本体は不可思議で、ごろんとしていて手がかりがない。そこでは、様々の存在が同じに見られて、自然の状態に帰るのだ。
『禅語録16 信心銘 梶谷宗忍』

万法を等しく受け止めることができるのか

本当に善も悪もないのでしょうか

江戸時代の禅僧に盤珪禅師がおられました。その名声を聞いて、多くの雲水たちが何百人も集まってきました。その中に一人、手癖の悪い雲水がおりました。近頃、誰それの着物がなくなった、誰それのお経の本がなくなったなど、ちょいちょいみんなのものがなくなっていく。しばらくすると、あいつだ。あいつがみんなのものを盗んでおったということになりました。

そして雲水の代表が盤珪禅師のもとに盗人雲水のことを話し、どうかあやつを追い出していただけませんかと相談に行きます。すると盤珪禅師は、

「ほう、そうか」

と聞かれるだけで一向に何もなさらない。そんなことが二度三度あったのですが、盤珪禅師はやはり何もなさらない。雲水たちはとうとうしびれを切らして、和尚様、あいつを追い出してくださらないじゃないですか。みんなの修行の妨げです。どうかあいつを追い出してくださいというと盤珪禅師は、

「そりゃーいかん。そういう悪いやつを善人にしてやることが修行というものじゃ。おまえさん方には悪いんじゃが、おいといてやってくれ」

しかし雲水たちはだめです。和尚様がそうおっしゃるなら、私たちが出て行きますと言うのです。すると盤珪禅師は、

「そうか、よろしいならばみんな出て行きなされ。おまえさ方ならどこの、道場でも立派に修行ができるじゃろう。あの盗人をするようなやつは、せめてここに置いてやらなければ、どこへも行くこところがない」

ここまで言われて雲水たちも道場を立ち去る訳にはいかなくなったしまった。しかし盤珪禅師がおっしゃった言葉が盗人雲水の耳に入った。

申し訳ありませんでした。それほど和尚様が私一人のことを思ってくださっていたとは。彼はみんなの中で懺悔し、泣いてわび、それ以来すっかり善人になってしまった。

一瞬でもいいんです。善も悪もないことに徹してみたい

悪いやつには処罰を与えよ。これは宗教ではなく、法律です。悪いやつを善人にするこれが宗教です。その悪いやつを善人に立ち返らせるのは、こちらの心に差別がないからです。

確かに私たちは現実の社会で生きております。それは差別の世の中であり、格差の世の中であり、とらわれての世の中です。そんな世の中で悪いやつを許せと徹することはなかなか容易ではありません。私もそうです。おそらく盤珪禅師もそうだったのじゃないかなーと思います。

しかし、ここ普門軒の中だけでもとらわれない自分に徹してみたいとそう思うのです。普門軒の中だけでも盤珪禅師になりたいと思うものです。

今回は少し信心銘からはずれました・・・。