普門軒の禅のミカタ

なぜ禅は世界から注目されているのか【月・金の朝更新】

信心銘の話〈その18〉

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その自然には、その根拠が消えてしまっていて、何も比べることができない。動きを停めようにも動きがなく、静止を動かそうにも静止がない。2つの立場が成り立たない以上は、1つの立場がどうして成り立とうか。とことんまでつきつめられて、そこには手本というものが残っていない。

其の所以を泯(みん)じて、方比すべからず
動を止むるに動無く、止を動ずるに止無し
両既に成らず、一何ぞ爾(しか)ること有らん
究竟窮極(くきょうぐうこく) 、 軌則を存せず

その自然には、その根拠が消えてしまっていて、何も比べることができない。動きを停めようにも動きがなく、静止を動かそうにも静止がない。2つの立場が成り立たない以上は、1つの立場がどうして成り立とうか。とことんまでつきつめられて、そこには手本というものが残っていない。
『禅語録16 信心銘 梶谷宗忍』

自然(じねん)とは、なぜと問わなくてもいいところ

其の所以を泯じて、方比すべからず

この『其の所以を泯じて』の「其の」は前回の『万法斉しく観ずれば、帰復自然なり』の「自然」を指します。仏教では自然(じねん)と発音します。自然(じねん)とは、私たちが普段使っている自然(しぜん)とまったく根本的に意味が異なります。ここをよーく押さえてください。

すべて等しく1つに観じられれば、自然(じねん)に帰る。その自然(じねん)には『所以を泯じて』、つまり理由がないというのです。フランス語では、理由を「raison」と言い、同時に理性、分別、正しいという意味もあります。自然(じねん)には理由、理性、分別、正しいという意味はありません。

梶谷宗忍老師は自然(じねん)を「その根拠が消えてしまっていて」とおっしゃり、鈴木大拙は「なぜと問わなくてもいいところ」とおっしゃっています。

自然(じねん)とは”理由なし”であるから「自ずから然り」であり、「当たり前」というところになります。ここは禅にとってとても大切な、重要なところです。

自然(じねん)は”理由なし”でありますから、分別はない。分別がないから絶対無のということになります。動も止もない。智慧も禅定もない。ただ自然法爾(じねんほうに)の無心の働き、無作の働きだけがある。ですから鈴木大拙は、禅とは無心のところの働きともおっしゃっています。無心のところ、つまり自然(じねん)の働きということです。

動を止むるに動無く、止を動ずるに止無し

私たちの普段の見方、比較対立、二元対立の見方ですと、「動」に比較して「止」があり、「止」に方比して「動」となり、それを”理性”的に判断したり、”知性”を使って整理する訳です。しかし自然(じねん)の見方で見ますと、「動」を止めると「動」はなくなり、「止」を動かすと「止」はなくなる。これを無作(むさ)の作と言います。無作とは無為と同様の意味です。

白隠禅師は『無相の相を相として、無念の念を念として』とおっしゃっています。比較のない形をそのまま形としみなさい。二元ではない考え方をそのまま考え方としなさい、ということです。何度もいいますが、これが比較対立、二元対立という近代的見方、近代的思考ではない、仏教的、禅的見方・思考です。

両既に成らず、一何ぞ爾ること有らん
究竟窮極 、 軌則を存せず

自然(じねん)には規則がない。自然(じねん)には規則はないが、春になれば花が咲き、冬になれば葉は散っていきます。これが無規則の規則を規則としていると見るのです。古代の老子は「道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名に非ず」とおっしゃった。

普門軒の裏には小さな山があります。その山に獣道があります。一度その獣道をかき消してみたらどうなるだろうと思い、落ち葉や枝などを道に置き、かき消してみたことがあります。数週間後見に行ってみるとうっすらとまた獣道が出来ています。連れて行った犬たちもその道の上をかけのぼって行きます。何度か実験してみたのですが、やっぱりそこに道が出来ます。

「なるほど、道というものはこうやって自然に出来るものか」と犬たちを見ながらそう思いました。私たちは後知恵で、獣道がそこにできる理由を言うのですが、出来るところに出来るのです。無規則の規則を規則です。人生の道というのも、私たちの祖先が長い歳月をかけて経験し、それを積み重ねていくうちに無規則の規則を規則が生まれ、それがいつの間にやら自然(じねん)に道となっていく。