普門軒の禅のミカタ

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般若心経 現代語訳その2

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般若心経の現代語訳の第2弾が出来ました。この第2弾はかなり大胆な訳になりました。でもとても自信をもったものになりました。一度、読んでみてください。

尊いものごとの「本来」を見極め、受け入れる力の体得の神髄を説くお経

ものごとの本質を見抜くには、「本来」を見極め、受け入れるしかない

(お釈迦様はおっしゃいました。)観音さまは、心静かにしてものごとを深く深く観察していた時、ものごとの本質を見抜くには、その「本来」を見極め、受け入れるしかないと確信されたのです。そうすれば目の前の苦しみや悩みも、自ずと消えていってしまうというのです。

あらゆるものごとは「本来」でしかない

(続けてお釈迦様はおっしゃます。)よく聞きなさい。あらゆるものごとは「本来」でしかなく、「本来」はあらゆるものごとでしかないのです。目の前のものごとはそのまま「本来」であり、「本来」はそのまま目の前のものごとなのです。同じくものごとの存在と働き(感じること、思い浮かべること、形作ること、見分けること)もまた「本来」として存在し、働いているのです。だからすべてのものごとはことごとく「本来」でしかないのです。

だからあらゆることにとらわれる必要はない

(さらにお釈迦様はおっしゃます。)よろしいか。あらゆるものごとは「本来」でしかないので、生じることにも滅することにも、汚れることにも清まることにも、増えることにも減ることにもとらわれる必要がないのです。だからものごとのの存在にもとらわれる必要がなく、その働きにもとらわれる必要がないのです。ということはものごとの存在や働きを感知する眼・耳・鼻・舌・身体・心の善し悪しにも、その対象である形・音・香り・味・触れられるもの・考えられることの善し悪しにもとらわれる必要がない。そしてそれらによって感知される世界の善し悪しにもとらわれる必要もないです。さらに迷うことも、迷いが消えることも、また老いて死ぬことも、老いて死ぬことが尽きることもとらわれる必要がない。さらには苦しみや悩み、損得や、結果がどうであるということもとらわれる必要がないのです。

本当の自分でありたいと思う者は、「本来」の自分を見極め、受け入れるしかない

だから本当の自分でありたいと思う者は、「本来」の自分を見極め、その「本来」の自分を受け入れるしかないのです。そうすることで心に妨げる隔たりもなくなり、妨げる隔たりがないからこそ、目の前の苦しみや悩み、恐れや不安もなくなっていくのです。外から入ってくる「本来」とは食い違った考えや妄想、情報から一切離れることで、「本来」の自分を見極め、受け入れ、そして本当の自分であることができるのです。過去・現在・未来の仏様方もみな、般若波羅蜜多(ものごとの「本来」を見極め、受け入れる力の体得)により、阿耨多羅三藐三菩提(無上の境地)を得たのです。

おまえさんの「本来」に幸あれ!

(お釈迦様はおっしゃいます。)だからこそよく聞きなさい。ものごとの「本来」を見極め、受け入れる力の体得とは、尊い力をもった道であり、尊い確かな道であり、この上のない道であり、比べることのできない道なのです。「本来」でしかないからこそ、一切の苦しみは除かれ、本当の、間違いのない道といえるのです。

故に般若波羅蜜多(ものごとの「本来」を見極め、受け入れる力の体得)という言葉をここで説きたもう。

見極め、受け入れんとする者よ、見極め、受け入れんとする者よ、「本来」の自分を見極め、受け入れんとする者よ、「本来」の自分を素直に見極め、受け入れんとする者よ、おまえさんの「本来」に幸あれ。 般若心経。