普門軒の禅のミカタ

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目に見えるものごともそのまま受け入れる

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私たち現代人の多くは、この世の中は、最終的には「目に見える」ものごとでできあがっており、目に見えるからこそ、目に見える形として認識し、説明し、証明し、理解できるとしている、そして同時に、今は目に見える形で認識できなくても、いずれ、将来、ちゃんと目に見える形で認識することができると思っているのではないでしょうか。

不安の原因は認識できないこと?

目に見えないということは認識できないということなのか

「目に見える」とは、実際に、見ることができる、聞くことができる、味わうことができる、匂うことができる、触ることができる、考えることができる、言葉にすることができると言う意味です

本当にそうなのでしょうか。また目に見える形にのみ、認識、理解、説明に重きをおくとどうなるのでしょうか。

目に見えないものごとに対して、不安を抱いてしまいます。そして目に見えないものごとに対する対応能力の弱さにつながっていきます。それが社会全体を包み込むと、パニックや破壊という反応につながる場合も歴史上多々あります。欧米社会にパニックや暴動が多いのは、このことに起因する一面があると私は思っています。

この世には目に見えるものも、目に見えないものもある

仏教の場合、世の中は、目に見えるものごとと、目に見えないものごとが存在しているとしています。ですから目に見えないものごとは、目に見えない形でそのまま認識するのです。 つまり、見ることができなくても、聞くことができなくても、味わうことができなくても、匂うことができなくても、触ることができなくても、考えることができなくても、言葉にすることができなくても、そういう形で認識できなくても、実際にそういうものごとがあると捉えるのです。

禅語には「不立文字」「教化別伝」言葉もあります。前者は文字に頼るな、後者は教え(目に見える形)の外にこそ真実があると言う意味です。身近な言葉ですと、「しかたがない」とか「しょうがない」というのもあります。

しかし現代の日本人の多くは、目に見える形をもって認識でき、理解でき、説明ができたと捉えてしまうようになってしまいました。その結果の一つがコロナに対しての日本人の反応ともいえるかもしれません。

それでもどうしても目に見える形にならないものもある

私たち人間には、目に見えないものごとを、目に見える形にしたいという癖があります。しかし目に見えないものごとのなかには、どうしても目に見える形にはならないというものごともあるという、この世の道理もあるのと仏教はみるのです。

かくいう私もこの世の道理(仏教では法(ダルマ)といいます)に対して、もう少し謙虚に素直なりたいものだと思っています。