普門軒の「禅の学校」

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信心銘の話〈その21〉

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真なる世界は、相手もなければ自分もない。さしせまってそれにピタリでありたいなら、ただ相対であるなと言うばかりだ。相対でないからすべての一つであり、そこに包み込まぬものはない。世界中の智者は、誰でもこの原理に帰着する。真理は時間的に延びたり、縮んだりするものではないから、一瞬につかめば万年も変わらぬ。真理は在るところと無いところの区別がないから、世界中が一様である。小さい事物を押し詰めてゆくと、大きい原理と一つになって、その分かれ目を忘れてしまう。大きい事物を押し詰めてゆくと、小さい原理と一つになって、その終わるところが見えない。

真如法界、他無く自無し
急に相応せんと要せば、唯不二と言う
不二なれば皆同じ、包容せずということ無し
十方の智者、皆此宗に入る
宗は促延に非ず 一念萬年
無在不在 十方目前
極小は大に同じく 境界を忘絶す
極大は小に同じく 辺表を見ず

真理は時間的に延びたり、縮んだりするものではないから、一瞬につかめば万年も変わらぬ。真理は在るところと無いところの区別がないから、世界中が一様である。小さい事物を押し詰めてゆくと、大きい原理と一つになって、その分かれ目を忘れてしまう。大きい事物を押し詰めてゆくと、小さい原理と一つになって、その終わるところが見えない。
『禅語録16 信心銘 梶谷宗忍』

「不二」を信じるを心とする

久しぶりの『信心銘』ですので、少し復習からお話しします。紀元8世紀頃禅宗の三番目の祖である僧璨鑒智(そうさんかんち)禅師の作と言われています。

明治、大正、昭和に活躍された禅の大家、鈴木大拙先生は「『信心銘』は堂々たる哲学詩で、禅の要旨はこれで尽きている」とおっしゃった。

『信心銘』という題を読めば、”信ずる心”と解されます。また「心を信ずる」とも解されます。この心とは「本心」のことであり、仏の心「仏心」のことです。ちなみに「本心」と日本語で言いますが、これは日本語で中国語では「本心」という言葉がありません。

このところは鈴木大拙先生の弟子筋に当たる秋月龍珉老師は、禅的解釈として「「信」を「心」とする」と解されております。「信じるを心とする」というのです。信じられる事柄と信ずる心は、二元対立を絶しているから、信じるを心とするとなるわけです。

そして『信心銘』は大きく6つの章に分けることができると言われています。それが、「至道」から始まり、「違順」「二見」「小見」「一如」そして最後が「真如」です。これから最後の章「真如」に入ります。

真如法界、他無く自無し 急に相応せんと要せば、唯不二と言う

真如、真実の世界には自もなく、他もない。私もなければ、あなたもない。これもなければ、あれもない。ただ「不二」というだけだというのです。真如、真実の世界、つまり”分別対立のない”世界。そこには自もなく他もない。”それぞれ”もなければ”おのおの”もない。そんな言いがたい、表現しがたい境地を”空”と言ったり、「真如」と言うのです。そういうしかないのです。それを「唯不二と言う」のです。説明をできなくとも、表現はできなくとも、実際そうなのだからそう受け止めるしかないのです。表現できなくては、真実ではないというのは科学の見方で、表現、証明できなくとも事実そうなのです。

不二なれば皆同じ、包容せずということ無し 十方の智者、皆此宗に入る

「不二」だから、みんな「同じ」であり、「一体」である。包み込むものも包み込まれるものもない。世の中の智者はみなこの宗(根本)に入る。この「不二」という概念は禅にとってとても重要な見方です。鈴木大拙先生は

西洋の人はものを二つに分けて考える。東洋の人は二つに分けないで、この分ける前の感じを表すようにする。これが西洋の人と東洋の人の生き方の違うところである。

そこでこの東洋ということと西洋ということを地理的に分けるということではなく、私の言いたいことは、むしろそういうものの言い方、感じ方、考え方がある。そういう一つの型がある。西洋にも東洋型があり、東洋にも西洋型はいくらでもある。

ところが西洋では、東洋型は極めて少ない。東洋ことに日本などでは、明治初めから今日に至るまで、西洋の影響を受けておるから、西洋の考え方にはまった人は大分、いろいろたくさんある。ほとんどそうなりかけていると思う。

それで、私は東洋には二つに分けないで、この分ける前の感じを表すというのがあるから、そいつを忘れないようにしたいとこういうのです

講演『最も東洋的なるもの』

とおっしゃっています。二つに分けないで、この分ける前の感じを表す。これが「不二」です。決して、不二とは唯一とか、二つとないという意味ではありません。

私はアルファベットの「Y」の字に例えます。の二つに分かれた上の方に関心を抱くのが西洋で、「Y」の字の二つに分かれていない下の方に関心を抱くのが東洋だということです。この場合は上は発展で下は未開ということではありません。

二つが残ったままの言葉

「共」と言う字がございます。熟語に共学、共感、共催、共存、共通、共鳴、共和などたくさんの熟語がございます。この「共」のつく熟語ですが、ほとんどが西洋の言葉を訳した言葉です。共に学び、共に感じる。ここには二つが残ったままです。分かれたままです。

「一緒」という言葉がありますが、西洋の言葉ではavecあるいはwithを使って表現します。どちらも何かが何かに付随している。付随するものと付随されるもの、二つが残ったまま、分かれたままです。一緒の「緒」は糸の始めを表します。一緒とはまさに二つに分ける前のところを指します。

お互いという言葉はの「互」という字は、縄を巻き付ける道具の形からきた字で、真ん中は握る束の部分で左右交互に巻き付けることから、お互いという意味になります。左右に分かれているようで分かれていない。真ん中の握りは実は一つなんです。お互いという言葉には、もともと「それぞれ」という意味はなかったのです。英語のeach otherには直訳すれば「それぞれのもう一つ」となり、分かれたままなのです。

このあたりの話になりますと鈴木大拙先生の友人、西田幾多郎先生も「主客未分」という言葉で説明をされており、東洋ことに中国、日本の思想の深く深くにある見方だと思います。

この「不二」「一如」「主客未分」などについてはまた機会があれば、お話しして、みなさんと考えてみたいと思います。

宗は促延に非ず 一念萬年 無在不在 十方目前 極小は大に同じく 境界を忘絶す 極大は小に同じく 辺表を見ず

長いか短いかは根本的な問題ではない。今、ここ、の一念が万年に通じているというのです。存在するかしないかという問題の前に、この世界は目の前に実際に展開しています。極小のものは大きなものに通じて、その境界は見えなくなっていきます。極大のものは小さいものからできていてその間にも境目はありません。

この段で、三祖僧璨鑑智禅師(そうさんかんちぜんじ)の言わんとしていることは、私たちの脳みその認識力は時間、空間の制約をもともと受けているものではなく、それをむしろ超えているというように言われております。

まさに分別を超えた境涯の表れです。これを「不二」と申します。