普門軒の禅のミカタ

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信心銘の話〈その2〉

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好き嫌いさえしなければ、すっぱりとすべて透明だ。毛の先ほどのずれができると、天地ほどもかけはなれるのだ。目のあたりに見たいのなら、それについて行くという気持ちがあってはならぬ。

但だ憎愛莫ければ 洞然として明白なり
毫釐も差有れば 天地懸かに隔たる
現前を得んと欲せば 順逆を存すること莫かれ

好き嫌いさえしなければ、すっぱりとすべて透明だ。毛の先ほどのずれができると、天地ほどもかけはなれるのだ。目のあたりに見たいのなら、それについて行くという気持ちがあってはならぬ。
『禅語録16 信心銘 梶谷宗忍』

ただ分別選択、感情にとらわれない!

但だ憎愛莫ければ 洞然として明白なり

さらに「憎愛」つまり、感情も加えてはならない。人間の感情のなかで最も露骨な感情が「憎愛」、憎い、可愛いです。私たちにはいろいろな感情がありますが、そういう感情を交えて行動していくと「本来への自覚」へは至ることができないというのです。

「揀択」が理性で、「憎愛」が感情。理性的に考え分別、選択で判別することも道ではない。可愛い憎いと感情で判別しても道ではない。 私たちの多くは、感情的は判断は確かに良くない場合もあるだろうと思うかもしれません。しかし理性的判断は良いものだと認識しているのではないでしょうか。しかし禅ではこの理性的判断は「本来への自覚」ではないというのです。現代に生きる私たちはこの理性への疑いを持つ人は非常にまれであると思います。

毫釐も差有れば 天地懸かに隔たる
現前を得んと欲せば 順逆を存すること莫かれ

お蚕さんの生糸を10本で1毫(ごう)。さらに、10毫を1厘(り)といいます。「毫釐も差有れば」とは、ごくわずかの差が生じただけでというたとえです。わずかな揀択、憎愛が生じたならば、天と地ほどの違いが生じてしまう。 「本来への自覚」を目の当たりしたいならば、順と逆、善と悪、得と損、Yes or Noといった二元対立の観念にとらわれてはならない

〈三祖僧璨鑑智禅師〉は、 順と逆、善と悪、得と損など、これらを抱くな、もってはならんと言っているのではありません。支配されるな、とらわれるなとおっしゃっているのです。

人間誰しも、理性を持ち、感情も持つし、比較でものを捉えます。しかし、それらにとらわれてはならないと言われているのです。これは大徳寺の開山和尚、〈大燈国師〉のおっしゃいる〈無理会の処〉と同じです。

〈道元禅師〉はこのような詩を詠まれました。

花は愛惜に散り、草は棄嫌に生ふるのみなり

花は散ってしまった。悲しいものだなー。また草が生えてきた。いやーまいったなー。
ただそれだけだけだ。

『天聖広燈録』