普門軒の禅のミカタ

普門軒のブログ:毎週月・金に更新、できれば・・・

習慣と言うこと

f:id:fumonken:20201109105504j:plain禅のいう「穏やか」とは最小限で満足できることです。では穏やかな生き方を得るための習慣とは、ズバリ余計なことはしないことです。あれやこれやと余計なことを比べたり、調べたり、考えたりしない。目の前のことに没頭するのです。文字通り、頭を没するというのです。「今」という瞬間を一所懸命に過ごすのです。

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穏やかに暮らすための9つの禅の習慣

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禅のいう「穏やか」とは最小限で満足できることです。では穏やかな生き方を得るための習慣とは、ズバリ余計なことはしないことです。あれやこれやと余計なことを比べたり、調べたり、考えたりしない。目の前のことに没頭するのです。文字通り、頭を没するというのです。「今」という瞬間を一所懸命に過ごすのです。結果よりも「する」ことの方が尊いというのです。

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信心銘の話〈その22〉

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存在がそのまま非存在であり、非存在がそのまま存在だ。もし、そうでなければ、決して固守する必要はない。任意の一つがそのまま総てであり、総てはそのまま任意の一つである。もし、こいつがいけたら、もう大丈夫、それが究極だ。まごころは相対的なものではなく、相対的でないからこそまごころだ。ここでは、言語のすべは総て断ち切られ、過去、未来、現在というような限定はない。

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信心銘の話〈その21〉

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真なる世界は、相手もなければ自分もない。さしせまってそれにピタリでありたいなら、ただ相対であるなと言うばかりだ。相対でないからすべての一つであり、そこに包み込まぬものはない。世界中の智者は、誰でもこの原理に帰着する。真理は時間的に延びたり、縮んだりするものではないから、一瞬につかめば万年も変わらぬ。真理は在るところと無いところの区別がないから、世界中が一様である。小さい事物を押し詰めてゆくと、大きい原理と一つになって、その分かれ目を忘れてしまう。大きい事物を押し詰めてゆくと、小さい原理と一つになって、その終わるところが見えない。

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信心銘の話〈その20〉

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心がピタリと一つになって、作為はすべて尽きはてている。ためらいは完全に底を払って、純なる精神が調和を保つ。すべて何も残らず、思い起こすことはない。形のない光明がちゃんとものを映し出して、こちらの意識を働かせるまでもないのである。思慮分別を超えたその世界は、知識や情意で測ることができない。

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禅の暮らし

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宗教は一般的に人々の救済をその教えのテーマにしている場合が多いです。キリスト教やユダヤ教、イスラム教にしても、その教えの中心には人々の救済が説かれています。日本の神道の教え同様の面をみることができます。しかし仏教というと・・・。

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