普門軒の禅のミカタ

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信心銘の話〈その1〉

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本当の道は、難しいことがない。取捨選択さえしなければよいのだ。

至道無難、唯だ揀擇を嫌う

本当の道は、難しいことがない。取捨選択さえしなければよいのだ。
『禅語録16 信心銘 梶谷宗忍』

至道とは、自分の本来を受け入れること

至道無難、唯だ揀擇を嫌う

「仏教」は”ブッダの説かれた教え”であるとともに、私たち自身が”ブッダになる教え”です。「ブッダ」とは何か? それは”自覚した人”の意味です。何に自覚したのか。それは”本来を自覚”したのです。

仏教では、私たちに生まれながら、「本来」すでに具わっているものを〈仏心〉とか〈仏性〉といい、その本来を自覚することを〈菩提〉とか〈悟り〉〈見性〉と言います。

この仏教の「本来への自覚」、悟りのことを古代中国では”道”と漢語で訳しました。これはとても重要なことで、ブッダの〈菩提〉とか〈悟り〉〈見性〉という教えを、”道”という実践的なものとして受け止めたのです。ゆえに「本来への自覚」は観念的にでも、抽象的でも、倫理的でも、道徳的でもあってはならないのです。「本来」は厳然たる事実であり、実践的でなくてはなりません。 禅というのは、この至道、「本来への自覚」を体験し、理解し、持続するための道のことなのです。

〈無門関〉第19則に『平常心是道(びょうじょうしんこれどう)』という有名な〈公案〉があります。 平常心是れ至道と言ってもいいでしょう・・・。

平常心是道

〈無門関〉第19則に『平常心是道(びょうじょうしんこれどう)』という有名な〈公案〉があります。 平常心是れ至道とも、平常心是れ本来への自覚と言ってもいいでしょう。

唐の時代、〈南泉和尚〉に弟子の趙州和尚が訪ねた。「如何なるか是れ道」道とは何ですか。本来の自分への目覚めとは何ですか。

南泉和尚は答えた。「平常心是れ道」 平常心が道じゃ。平常心とは普通の心。嬉しい、悲しい、憎い、かわいい、好き、嫌い、お腹がすいた、疲れた。そういう心が道なんじゃよとお答えになった。

すると趙州和尚はさらに聞く。「かえって趣向すべきや否や」 そのために努力しなければなりませんか。

すると南泉和尚は 「向かわんと擬ずれば即ち乖(そむ)く」 追おうと努力すれば、それは道に反する。何か計らいが生じると、それは崩れてしまう。

しかし趙州和尚はまだはっきりと”本来への自覚”をしていないので、そんなことを言われても、どうも納得がいかない。

「擬せずんば争(いかで)か是れ道なることを知らん」 そちらの方へ向かおうとしなければ、どうしてそれが”本来への自覚”だということがわかるのですかとたずねる。

すると南泉和尚は 「道は知にも属せず、知は是れ妄覚、不知は是れ無記、若し真に不擬の道に達せば、猶大虚の廓然として洞豁(とうかつ)なるが如し、豈に強いて是非す可けんや」 ”本来への自覚”は、考えてわかるようなものではない。しかし、わからないと言ってしまうこともできない。考えてわかるものだったら、妄想になってしまい、わからないとなれば、意味のないものになってしまう。理解できるとか、理解できないとか言う分別、選択を離れみてみると、自ずから「本来への自覚」は現れるのじゃとおっしゃられた。

そして趙州和尚は「州云く、言下に頓悟す」 この言葉を聞いて本来への自覚をされた。

どうやって「本来への自覚」ができるのか

「本来への自覚」は考えて出てくるものではありません。人の話や本やインターネットなどで覚えた知識でも自覚はできません。しかし趙州和尚は南泉和尚のお言葉で秋晴れのようなからーっとした”本来への自覚”をされた。

しかしこれを読んでおられるみなさんもそうかもしれませんが、考えてやってもいけない。意識して向かってもいけない。人の話も本やインターネットの知識を調べても「本来への自覚」はできないなんて、南泉和尚の言葉だけでは納得ができないかもしれません。

だったらどうやって「本来への自覚」できるのしょうか。

ただえり好みをしないこと 

三祖僧璨鑑智禅師は、ただ「揀択」をしてはならない。「揀択」とはえり好みのことで、あーしたらいい、こーしたらいい、あれがいい、これはいやだという意識のことです。

「本来への自覚」したければ、ただ分別、選択をするなというのです。

僧璨鑑智禅師はこの『信心銘』を通して、私たちに伝えてくれました。えり好みをするな。選択をするな。分別をするなと。えり好みはどこからきて、なぜ選択をするなというのか。どうやったら分別をせずにいられるのか。そして揀択の無くなった先には何があるのか。それが『信心銘』には書かれています。