普門軒の禅のミカタ

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信心銘の話〈その20〉

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心がピタリと一つになって、作為はすべて尽きはてている。ためらいは完全に底を払って、純なる精神が調和を保つ。すべて何も残らず、思い起こすことはない。形のない光明がちゃんとものを映し出して、こちらの意識を働かせるまでもないのである。思慮分別を超えたその世界は、知識や情意で測ることができない。

契心平等なれば、所作倶(とも)に息(や)む
狐疑浄盡して、正信調直(ちょうじき)なり
一切留(とどま)らず、記憶すべきこと無し
虚明自照、心力を労せざれ
非思量の處 、識情測り難し

心がピタリと一つになって、作為はすべて尽きはてている。ためらいは完全に底を払って、純なる精神が調和を保つ。すべて何も残らず、思い起こすことはない。形のない光明がちゃんとものを映し出して、こちらの意識を働かせるまでもないのである。思慮分別を超えたその世界は、知識や情意で測ることができない。
『禅語録16 信心銘 梶谷宗忍』

何も思わない思いになる

契心平等なれば、所作倶に息む 狐疑浄盡して、正信調直なり
一切留らず、記憶すべきこと無し

心の平等が体得されれば、所作はいずれも止まる。ためらいはことごとくなくなって、正しい信心、調和がされ素直な状態になるというのです。そしてすべて何も残らず、記憶すべきこともない。

唐の時代に大龍という和尚がおられました。あるとき、一人の雲水が和尚に「いかなるか是れ堅固法身」、永遠不滅の命とは何ですかと尋ねた。すると大龍和尚は

「山花開いて錦に似たり、澗水湛えて藍の如し」

と答えられた。山の桜の花はぱーっと開けば、錦のように美しい。谷川の水は真っ青に澄んで藍の染め物のように美しい。しかしこの桜の花もぱーっと咲いて美しいが、ぱーっと散っていく。やがて葉桜になり、その葉っぱも散って、枝だけになる。谷川の水も真っ青なれば、川の淵にあふれんばかりですが、一瞬の休みもなしに流れている。動いている一瞬、一瞬に永遠をみるのです。能楽師の世阿弥は「花は散るゆえによりて、咲く頃あれば、めずらしきなり」とうたわれました。

虚明自照、心力を労せざれ 非思量の處 、識情測り難し

心の平等に気づき、ためらいが尽き果てて「正信調直」の心境は一切とどまりがなくなるというのです。虚明とは一点の曇りもない空のことをいいます。そんな秋晴れの空のような気持ちで毎日暮らせるならば、心力を労せず、何も頭を使う必要もなくなる。何も思わないところ。何も思わない心境こそ、本当は深い深い心境とは言えないでしょうか。何も思わないところこそ、常識では測れない、道徳では測れない、理性では測れない、イデオロギーでは測れない、深い深い境地なのです。

私たちも分別、比較の二元的な考え、捉え方に落ちずに何も思わない思いで過ごしたいものです。

好き嫌いをしないことを実践する

しかしそういう境地を得ることはなかなかにして難しい。どう実践すればいいのでしょうか。

その第一歩は好き嫌いをしないだと思うのです。好き嫌いをしないでは好き嫌いを思わないと言っていいのでしょうか。何でも食べるし、何でも作業する。お金もかかりません。どこかへ習いに行く必要もありません。今すぐに、あなたの場所でできます。好き嫌いをしない。してしまったら、また、次の瞬間から好き嫌いをしない。