普門軒の禅のミカタ

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禅の暮らし

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宗教は一般的に人々の救済をその教えのテーマにしている場合が多いです。キリスト教やユダヤ教、イスラム教にしても、その教えの中心には人々の救済が説かれています。日本の神道の教え同様の面をみることができます。しかし仏教というと・・・。

境がないこと

生活と哲学の境がなく、体と心の境がなく、自然と人間の境がない

師匠の寺で数年暮らしたアメリカ人が10年ぶりに日本に来られました。私ははじめてお会いする方でしたが、いろいろなことをお話してくださいました。彼は今、アメリカでユダヤ教のラバイをしていらっしゃいます。ラバイとは仏教で言うところの和尚さんのことです。

彼は久しぶりの禅寺の生活に「ここ(この禅寺)は私にとって、エデンの園のようなものだ」とおっしゃいました。禅の暮らしとはどのようなものか尋ねると、 禅寺の暮らしは、生活と哲学の境がなく、体と心の境がなく、自然と人間の境がないことですときれいな日本語おっしゃいました。

聖と俗の境がない

「生活と哲学の境がなく、体と心の境がなく、自然と人間の境がない」。本当にそうだなーと私は実感しました。私は以前、禅の暮らしを外国人に尋ねられ、「聖と俗が一体となっていることが特徴です」とお答えしました。このことは日本の文化にも言えることだとお話ししました。

私たちに日本人は家の中に上がるとき、履き物を脱ぎます。その際、履き物をそろえます。靴を脱ぐという世俗の行為を、そろえることでその行為は聖なる行為になるんだと私は思うのです。ご飯をいただく前に手を合わせて「いただきます」と言う。食事を取るという世俗の行為が手を合わせることで聖なる行為になる。掃除という世俗の行為も、禅の暮らしでは修行という聖なる行為なのです。

聖と俗が一体となっている。彼の言葉で言うと聖と俗の境がないということです。そうやって意識してみるだけで、私たちの日常の習慣はとても豊かに感じます。

聖のある暮らしへ

考えてみますと、今を生きる多くの日本人の暮らし方は、聖のない暮らしと言えないでしょうか。それは宗教的行為が日常生活から無くなっていったからに他なりません。もちろんお墓参りや法事はされるでしょう。でも日常の生活の営みにおいては、宗教的行為は非常に薄い状態にあります。

例えば、戦前、私の祖母が若い頃は、おなかが痛いとき、頭が痛いときなどは、もちろん薬も飲むのですが、「おん ころころ せんだり まとうぎ そわか」と唱えながら、母親がさすってくれたものだというのです。これは水木しげるさんの描くのんのんばあのシーンにもでて参ります。薬師如来、お薬師さんの真言です。私はそういう事が好きなんです。そういうことが何の意識もなくする人間になりたいと思っているんです。娘がお腹を痛がっている時などは「おん ころころ せんだり まとうぎ そわか」といって指すってやっています。彼女が大きくなったとき、そういう聖なるものを素直に大切にする人間になってもらいたいと願っております。