普門軒の禅のミカタ

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信心銘の話〈その16〉

f:id:fumonken:20200608202201j:plain眼が覚めている時は、どんな夢も見ることはない。自分の心が変化しなければ、様々な存在はさながらに一つである。さながらに一つであるその本体は不可思議で、ごろんとしていて手がかりがない。そこでは、様々の存在が同じに見られて、自然の状態に帰るのだ。

眼若(も)し睡らざれば、諸夢自から除く
心(しん)若し異ならざれば、万法一如なり
一如体玄なり、兀爾(こつじ)として縁を忘ず
万法齊(ひと)しく観ずれば、帰復自然(きぶくじねん)なり

眼が覚めている時は、どんな夢も見ることはない。自分の心が変化しなければ、様々な存在はさながらに一つである。さながらに一つであるその本体は不可思議で、ごろんとしていて手がかりがない。そこでは、様々の存在が同じに見られて、自然の状態に帰るのだ。
『禅語録16 信心銘 梶谷宗忍』

渾然なる一如の世界があっても、それは知性の世界とはならぬ

眼若し睡らざれば、諸夢自から除く
心若し異ならざれば、万法一如なり

『眼若し睡らざれば、諸夢自から除く』の「夢」とは、夜、睡眠中に見る、肉体的に見る夢のことではありません。妄想やとらわれという心の問題の「夢」のことです。もし、眼をしっかりと開いているならば、もろもろの夢(妄想やとらわれ)は消え去ってしまうと言うのです。

私たちが夜、睡眠中に見る肉体的な意味の夢は、朝、目が覚めると同時になくなってしまいます。この夢と同じように、私たちが日ごろ抱いてしまう心理的な夢も、しっかりと心の眼を開いて、心の眼を覚ませば、そんな夢(妄想やとらわれ)もなくなってしまう、そういう意味です。

『心若し異ならざれば、万法一如なり』とは、心がもし、何にもとらわれていなければ、すべての物事が一如である、そういう意味です。「一如」というのは仏教において、こと禅においてはとても大切な見方の一つです。一つでありつつそれは異なるけれども、異なりつつもそれは一つでもあるという認識の仕方です。

簡単に申しますと、この世の中はYES、NOという二つに分けて見ること(認識すること)はできない、もしくは2つに分けて捉えないという意味になります。私たちは普段より、高い、低いとか、おいしい、おいしくない、好き、嫌いとか、二つに分けて物事を認識してしまう、二元的に見てしまう癖をもっています。この二元的な物事の認識について、鈴木大拙はこう記しています。

知性的なるものの特徴は二元的であるというところに在る。知性は、見るものと見られるもの、知るものと知られるもの、主観と客観との正解において可能である。言ひ換うれば、渾然なる一如の世界があっても、それは知性の世界とはならぬ。知性は必ずそれを二つに分けて見る、さうしなければ知性そのものもないのである。

『霊性的日本の建設』より

一如体玄なり、兀爾として縁を忘ず
万法齊しく観ずれば、帰復自然なり
其の所以を泯(みん)じて、方比すべからず

『一如体玄なり』とは、一如という実体は玄であるという意味です。玄とは奥深い根本的な原理原則という意味です。『兀爾として縁を忘ず』の「兀」とはあまり見かけない字ですが、山が高くそびえ立つ、険しいという意味で、「兀爾」で、山がぐーっとそびえ立つような気高い精神ということです。ここで言う『縁を忘ず』とは仏教で言う「縁」のことではなく、内と外の境という意味です。そういう気高い精神は内と外の境もなくなってしまうと言うことです。

 『万法齊しく観ずれば、帰復自然なり』とは、すべてのことがらを一如とみるならば、自然の姿でいられる。とはいえ、そんんあに何もかもすべてを平等に見るというならば、教育やしつけ、道徳ということはいらないではないか。良い人も、悪い人も、できのいい子も悪い子も、同列に扱い、平等に見ていたら、到底、学校は成り立たないと思うでしょう。この見方が社会の道徳であり、政治の世界のミカタなのです。

でも宗教のミカタはそうではありません。

そんなお話を次回はしましょう。