コンピュータは基本ソフト(OS)がないと動きません。そのOSによって入出力機能、ファイル管理、メモリー管理、ネットワーク機能などが決まります。
ブログのタイトル”見方”とは
OSには数種類あり、OSが違うとアプリは機能しない
文章を作ったり、写真を加工したり、インターネットを閲覧したりするアプリと呼ばれる機能も、OSがないと動きませんよね。
皆さんもよくご承知の通り、コンピュータを動かす基本ソフトOSにはMac OS、Windows、Linuxといったように何種類かあります。そしてアプリはそのOSごとに専用のアプリとして用意されています。Mac OS用のアプリはWindowsでは動きません。また逆もしかりです。
私はこう考えています。思想や哲学というものの捉え方、見方はちょうど基本ソフト(OS)のようなものではないかと。
そう仮定すると、実践というアプリも、その思想や哲学ごとに違ってくるし、『見方』が違えば、その上の実社会や暮らし方、生き方(アプリ)も異なってくるのはではないかと。
二元論の「OS 近代」
私は禅という見方を知り、10数年の間その上で生きてきました。そして今に至り、これまで使ってきた基本ソフトとその比重が逆転してきたように感じるようになったのです。
私のこのブログで、これまでに使ってきた基本ソフトを仮に「近代の見方」と、そして禅という基本ソフトを「禅の見方」と名付けたいと思います。
例えば自由について。「近代の見方」では、自由とは外的束縛や強制がないことを意味します。これは「近代の見方」(=西洋近代思想)にはその根底に二元性(二元論)と見方を持つからです。私はあなたがいるから成立する。あれはこれがあるから成立する。白は黒があるから白である。自分と外と区別する基本ソフトなのです。ですから「○○からの自由」というようにいえるのです。また自由の反対はもちろん不自由です。
一如の「禅の見方」
一方「禅の見方」では、自由とは自ずから由るのであって外的束縛や強制すらも自ずからの一部であり、離れることができないことを意味します。これは「禅の見方」(=東洋思想のひとつ)にはその根底に一如という見方をもつからです。私はあなたの一部であり、あなたは私の一部でもある。自分と外とを区別しない基本ソフトなのです。
よく禅宗のお坊さんは言います。腕が内側に曲がるのも自由。外側にそれ以上曲がらないのも自由であると。ですから自由の反対は不自由ではなく、不自然なのです。
世界は一つなのか、世界と一つなのか
世界平和を考えてみましょう。世界が一つになる必要はなく、世界と一つになるべきなのです。それぞれがなくなって一つの世界になるのではなく、それぞれがあっていい。それぞれがそのままで一つとなる。それが「禅の見方」の世界平和というアプリです。