普門軒の「禅の学校」

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信心銘の話〈その22〉

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存在がそのまま非存在であり、非存在がそのまま存在だ。もし、そうでなければ、決して固守する必要はない。任意の一つがそのまま総てであり、総てはそのまま任意の一つである。もし、こいつがいけたら、もう大丈夫、それが究極だ。まごころは相対的なものではなく、相対的でないからこそまごころだ。ここでは、言語のすべは総て断ち切られ、過去、未来、現在というような限定はない。

有即ち是れ無 無即ち是れ有
若し此の如くならざれば 必ず守ることを須(もち)いず
一は即ち一切 一切は即ち一
但だ能く是の如くならば 何ぞ不畢(ふひつ)を慮(おもんばか)らん
信心不二 不二信心
言語の道は断え 去来今に非ず 

存在がそのまま非存在であり、非存在がそのまま存在だ。もし、そうでなければ、決して固守する必要はない。任意の一つがそのまま総てであり、総てはそのまま任意の一つである。もし、こいつがいけたら、もう大丈夫、それが究極だ。まごころは相対的なものではなく、相対的でないからこそまごころだ。ここでは、言語のすべは総て断ち切られ、過去、未来、現在というような限定はない。
『禅語録16 信心銘 梶谷宗忍』

自分の都合、自分の分別を取り去るしかない

有即ち是れ無 無即ち是れ有 若し此の如くならざれば 必ず守ることを須(もち)いず

いよいよ最終章です。時間がかかってしまいました。さすがにここまで来ると本当に佳境に入ったという感じです。僧璨鑑智禅師の信心銘に託す筆圧を感じます。「有る」という存在がそのまま「無い」という非存在であり、無いがそのまま有る。もし、そうでなければ、断じて固守する必要はないというのです。これは勘のよい方はおわかりかもしれませんが、『般若心経』に出てくる論法です。「色即是空、空即是色」。『白隠禅師坐禅和讃』でいう「無相の相を相として・・・、無念の念を念として」です。

一は即ち一切 一切は即ち一 但だ能く是の如くならば 何ぞ不畢(ふひつ)を慮(おもんばか)らん

一が一切で、一切が一である・・・、と考えがちですが、それは違います。一が一切となると一も一切も残ったままで、二元論のままになってしまいます。だから一がそのまま一切で、いっさいがそのまま一であるとなるのです。”そのまま”というのが重要なのです。この点は仏教哲学においてやかましく言われている点です。

例えば、one for all, all for one.というラグビーの言葉がありますよね。五〇歳前後の方でしたら、テレビドラマ「スクール☆ウォーズ」をご存じでしょう。そのドラマでよく言われていた言葉です。one for all, all for one. これは一人はすべて(チーム)のために、すべては一人のためにとなります。しかし一人はそのまますべてで、すべてはそのまま一人であるとは訳せません。一見似ているようですが、やっぱり違う。

このように認識する「主体」と認識される「客体」を分ける見方を西田哲学では「対象論理」と呼んでおります。一人という主体と、すべてという客体はイコールではありますが、決してそのままではありません。一人もすべても残ったままです。イコールではつながれていますが、永遠に一つにはなりません。

山田無文老師は、このように主体と客体(自と他)が分かれたままの対象論理の見方のまま「自我を自覚せよ」とか「個性を持ちなさい」などのように教育してしまうので、どうしても結果は自分中心、自分本位で、利己主義に人間が育ってしまうのです。さらに深刻なことは、私たちはそんな自分であることを全く自覚していないからやっかいなのだとおっしゃいました。

信心不二 不二信心 言語の道は断え 去来今に非ず 

「信」はそのまま「心」であるから不二であり、不二とは信心である。信じる主体である心と信じられる客体は不二だというのです。コインの裏表、吸って吐いての呼吸のようなものだというのです。臨済禅師は「一無位の真人」と言い、道元禅師は「本来の面目」と言う。近代において西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」と言い、久松真一は「無相の自己」と言う。

僧璨鑑智禅師がこの『信心銘』でうたいあげたかったことは何でしょうか。一番最初に言い出された「至道無難」。本当に至れる道というもの、これ以上ないという真理、根本、そのものは決して難しいものではない。やれこうだ、なんだかんだという講釈は必要ない。理屈議論はもっての外。ただ、ただ「唯嫌揀択」。唯だこっちあっちという見方をするな。選り好みをするな。なぜそんなに選り好みをするなとおっしゃるのでしょうか。

それは、選り好みをしている判断基準になっているのが、「自分の都合」だからです。自分を中心にしているからです。自分という中心があれば、いつまでもどこまでいっても他があり続けるのです。不二にはなれません。自と他の垣根はなくなりません。

私は自分という言葉は「自と分ける」と読むのだと思うのです。自と他を分ける。それが自分という見方です。自分は、自分は、自分は、ととかく私たちは口にします。その「自分」という言葉を口にした瞬間、そこはもう「揀択」です。そこからもろもろの妄想、欲望、希望的観測、不平不満、自己中心そういうものに取り巻かれて言ってしまうのです。

お釈迦様は6年にわたる大修行の後、ついに大悟なされます。

「奇なるかな、奇なるかな。一切衆生悉く皆如来の智慧と徳想を具有す」

すべての生きとし生けるものはみんな苦しんで生きているのだと思っていたが、なんと不思議ではないか、生きとし生けるものがすべて一切、悉く仏の智慧と徳相(高い徳)を備え持っているではないか。本来の生き方、本来の道を知っているではないか。そう感動なされ、大悟されたのです。

さらにお釈迦様は続いておっしゃいます。この続きの方は実はとても大切なのです。

「ただ妄想、執着あるを以ての故に証得せず」

こう結んでいるのです。妄想、執着という自と他を持った思いがあるが故に今だに、その苦しみから抜け出すことができないというのです。

お釈迦様が見られた真実の世界、本来の世界というものは、私たちには見えないのではありません。私たちに自覚、実感できないのではありません。私たちにただ妄想、執着あるから見えないし、実感できないというのです。もうおわかりですよね。これを僧璨鑑智禅師は「至道無難唯嫌揀択」とうたいあげたのです。

本来の生き方、本来の道というものは決して難しいものではありません。ただ、ただ、自分の都合、自分の分別を取り去るだけだなのです。私の師匠の師匠にあたる盛永宗興老師は悟りとは自分と他人の分別、差を取る、つまり「差取り」であるおっしゃいました。

以上で信心銘の話を終わります。