本性のままで大道と一致し、ゆらりゆらりとのんびり歩いて何の悩みもなくなる。心を一つの対象にくくりつけると真理にはぐれ、心が沈みこんで自由を得ぬ。自由を得ぬから精神をすり減らすのである。どうして道に遠ざかったり、近づいたりする必要があろうか。同じ一つの乗り物を手に入れたいと思うなら、六官の対象に逆らってはいけない。
性(しょう)に任ずれば道に合う 逍遙として脳を絶す
繋念(けねん)は真に率(そむ)く、昏沈は不好なり
好なれば神(しん)を労す、何ぞ疎親することを用いん
一乗に趣かんと欲せば、六塵を悪(にく)むこと勿れ
本性のままで大道と一致し、ゆらりゆらりとのんびり歩いて何の悩みもなくなる。心を一つの対象にくくりつけると真理にはぐれ、心が沈みこんで自由を得ぬ。自由を得ぬから精神をすり減らすのである。どうして道に遠ざかったり、近づいたりする必要があろうか。同じ一つの乗り物を手に入れたいと思うなら、六官の対象に逆らってはいけない。
『禅語録16 信心銘 梶谷宗忍』
根で境を識する
六塵を悪むこと勿れ
六塵を悪むこと勿れ。「六塵」とは『般若心経』にも書かれています6つの対象物のことです。私たちは対象物を捉え、そしてそれが何かを認識します。仏教が認識というものをどう考えているかについては非常に面白いので、すこし詳しくお話ししましょう。
1.感覚器官:六根(ろっこん)
まず私たちには対象物を捉える器官をもっています。それを六根といいます。仏教の言葉で「根」とは能力と、その器官を意味します。六根ですから6つの感覚器官があるというのです。『般若心経』に書かれている眼耳鼻舌身意がそれです。現代の言葉で言うと、それぞれ、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、知覚という6つの感覚器官となります。
2.感覚器官の対象:六境(ろっきょう)
感覚器官である六根の対象が、先ほどお話しした六塵です。信心銘では六塵と書かれておりますが、六境といいます。仏教の言葉で「境」とは、対象とか領域の意味です。つまり六境とは6つの感覚器官に対する対象のことで、『般若心経』に書かれている色声香味触法がそれです。視覚に対する色(しき:物質)、聴覚に対する声(しょう)、嗅覚に対する香(こう)、味覚に対する味(み)、触覚に対する触(しょく:触感)、知覚に対する法(ほう:考え・思い)というわけです。
3.感覚器官による対象の認識:六識(ろくしき)
感覚器官で対象物を六識する。仏教の言葉で「識」とは認識という意味です。『般若心経』にには限界乃至(無)意識界と、界、界識という言葉で書かれていますが、認識の世界と言う意味です。つまり眼識から意識に至るまで6つの認識の世界という意味です。6つの感覚器官で6つの対象物を6つの認識を世界をつくるということです。
6つの器官で、6つの対象に、6つの認識をする
例えば、電話の場合、感覚器官(根)は耳を使い、対象物(声)は相手の声であり、認識の世界は耳識と言えます。一方スカイプなどのビデオ通話の場合は、これに感覚器官として眼も使い、対象物に相手の映像(色)もあり、認識の世界は眼識も加わります。
実は電話でもビデオ通話でも、もう一つの感覚器官を使っています。それが意です。私たちには眼耳鼻舌身の5つの感覚器官(いわゆる五感)と、さらに意という知覚器官があります。この意という知覚器官は、他とは違い常に働いてしまう癖を持っております。例えば、電話やビデオ通話の場合、相手の声や顔色という対象物は耳や眼という感覚器官を働かせるのみならず、あの人の声は今日は元気が無いなーとか、あの人の顔色はいいなーといったように法という意という知覚器官にも刺激し、意識という認識の世界も作り上げるのです。
外の世界をよーく認識しろ!とは
さて、話は『信心銘』の「六塵を悪むこと勿れ」にもどります。「六塵」とは色・声・香・味・触・法の6つ対象物の塵のことです。繰り返しますが、対象物とは自分の外に存在するものです。客観世界のものです。
本来のところを修めたいと思うならば、対象物である外の世界「境」を見ても、聞いても、嗅いでも、味わっても、触っても、思ってもいかん、ただ坐っとれ!と言うことがありますが、「六塵を悪むこと勿れ」。そうではありません。六塵(=六境、6つの対象物)を憎むなというのです。禅はむしろ、眼を開いて外の世界をよーく見ろ!耳をほじってよーく聞け!と申します。「何も思わん」という考え方(対象物)にとらわれると、「何も思わん」と言う認識の世界にとらわれてしまうのです。だから本当の「何も思わん」ければ、六塵(=六境)はそのまま”本来の自分”であり、自分と対象物の区別が無くなるというのです。
「一乗に趣かんと欲せば、六塵を悪むこと勿れ」という一文について江戸時代の仏頂国師は『信心銘弁註』という書でこう書かれております。
六塵を悪んで掃いのけて、一乗に趣かんと欲するは、喩えば我れ自ら物を盗んで、我が手を切って捨てんとするが如し。盗む手も切らんとする手も倶に我なり。終に切り難し
『信心銘弁註』