普門軒の禅のミカタ

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Natural I と Personal I

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今、ロンドンの知人の方たちとzoomを使って坐禅会を開いています。4月に彼からzoomで坐禅会が出来ないかという提案があったんです。私はそれまでzoomというアプリケーションすら知りませんでした。

Natural I である自ずからの自分とPersonal I である自らの自分

「自ずから」と「自ら」をどう訳するか。

毎週日本時間の土曜日の朝zoom zazenをはじめて、今日で6回くらいになりますでしょうか。2回の坐禅と1時間くらいの茶礼で、約2時間の坐禅会です。みなさん外国の方ですが、坐禅、ヨガ、瞑想を長く続けてこられた方が多いので、茶礼の話の内容も深いものとなっています。私にとってもとても勉強になります。

今回、「自ずから」と「自ら」の話をしました。

そもそも「自」と言う字は、鼻の形を形取った字です。鼻を指して自分を示すところから、転じて自己の意味となりました。この「自」という自ですが、みなさんご承知の通り、訓読みが2つあります。「みづから」と「おのづから」と読みますね。

「みづから」は「身(み)+づから」であり、「おのずから」は「己(おの)+づから」となります。「づから」とは「つ+から」で、「つ」とは「の」の意味です。例えば、目の毛で「まつげ」といいますが、その「の」という意味です。「から」はそのまま今の意味での「まま」である。

ゆえに「身づから」は「身のまま」、「己づから」は「己のまま」という語源になります。ですから。身と己の違いが「自ら」と「自ずから」の違いといえます。

鈴木大拙博士は「自ずから」とは、

「自ずから」というのは、自分の力でない何かわからんものだが、しかし自分に関係の無い、自分がそれに最も密接な関係をもっておるもの。

『講演集最も東洋的な売るもの』鈴木大拙

とおっしゃっております。

Natural I と Personal I

私たち日本人に「自ずから」と「自ら」の違いについて説明を求められても、正確には答えられないかもしれませんが、なんとなくその違いはわかるのではないでしょうか。しかしこれを西洋の人たちに説明をするのは非常に難しいのです。そもそも「自ずから」と「自ら」という言葉がない。

そこで私はzoom zazenの人たちに、自ずからの自分を Natural I と、自らの自分を Personal I と訳して説明させてもらいました。

natureの意味は、「自然」という意味の他に「性質」とか「本質」などと訳されます。その語源は、誕生、生まれを意味するラテン語 nation に由来します。personalの意味は、「個人的」「個人用」などと訳されます。そしてそのの語源は、ラテン語のpersonaからきています。 personaとは、役者が用いた仮面のことです。naturalは先天的で、personalは後天的というとわかりやすいかもしれません。

とくに現代に生きる私たちは、生まれてからのちに身にそなわる、もともと外的な側面だったはずの Personal I (自らの自分)の方が、 Natural I (自ずからの自分)よりもいいのだ。それが成長であり、発展、進歩なんだと。だから、現代人は、資格を取ったり、人の評価を気にしたり、基準を外に、外に求めてしまう。その外のモデルの中に自分を入れていこうとする。そしてその後天的な Personal I (自らの自分)は、時間がたつにつれ、あたかも自分の本質、本性であるかのごとく受け入れられていく。その Natural I と Personal I の差が「苦しみ」と言われるものだと私はお話ししました。

この Natural I と Personal I の話は非常に面白いので、また機械を見て、お話ししたいと思います。

今日はこのあたりで。