普門軒の禅のミカタ

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『般若心経』を読む(1)

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新年あけましておめでとうございます。皆様におかれましては、穏やかな新年をお迎えのこととお慶び申し上げます。昨年は、私たちの社会において、様々な動揺が起きた一年でした。

「縁起」と「空」の体得を説くお経


新年あけましておめでとうございます。皆様におかれましては、穏やかな新年をお迎えのこととお慶び申し上げます。昨年は、私たちの社会において、様々な動揺が起きた一年でした。

しかし、時は止まることなく、昨年の春も、普門軒の境内では、いつもと変わることなく鶯が鳴きました。そしてまわりの桜の木には満開の花が咲き誇りました。春になる条件が整ったので、季節は移り変わった。

すべてはつながりによって起こっているのです。私たちたちのつながりには、自分にとって都合のよいものもあれば、都合の悪いつながりもある。それがこの世の原理、本来の姿なのです。道元禅師は「本来の姿」とはいかがなものですかと弟子に問われ、こうお詠みになりました。

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり

摩訶般若波羅蜜多心経とは

本来の姿を何なのか。それをまとめた仏教のお経が『大般若経』という六〇〇巻に及ぶ経典です。その長いお経をわずか二七八文字にまとめたものが『般若心経』であると言われております。私たちが今、目にしている『般若心経』は漢文で書かれておりますが、これはもともと古代インドの言葉で書かれたお経で、『西遊記』で有名な玄奘三蔵法師がインドの言葉を漢訳されたのでございます。

『般若心経』は短くもあり、また大変重要であることで、とくに日本の仏教では古来より最も多く、読誦され、実は私たち日本人の文化歴史に深く深く浸透しているお経なのです。

「空の思想」と説く『般若心経』

その『般若心経』では一貫して本来の姿とは「空(くう)」であると「空の思想」を説いているのです。

私たちは普段、見るもの聞くものは、これがこれであるというものがあると無意識に思っております。しかし『般若心経』ではあらゆるものごとは「空」であり、それぞれのものごとは「これがこれである」「これが私である」と言ったように、絶対的なものがあるのだと言い切れないというのです。これが「空の思想」で、古代インドで生まれた仏教の根幹となる思想でございます。

この「空の思想」は原始仏教でも説かれていましたが、特に日本に伝えられた仏教では、それを受けてさらに発展されたのです。『般若経典』では、私たちは絶対的な観念を抱いてはならない、不変的なものがあると見てはならないと、ありとあらゆるものは「空」であると繰り返し説かれているのであります。

「縁起の法則」と「空の思想」を体得することが仏教の目的

なぜなら私たち自身も含め、この世のものごとは、刻々と変化するあらゆるのものに条件付けられ、お互いに依存し合って成り立っているからです。仏教ではそう見るのです。これを仏教の根本的な教えである「縁起の法則」と申します。今そこに見えるものはありとあらゆるののが相互に依存し、つながりを得て、その限りにおいて存在しているにすぎないというのです。だからこの世には「これがこれである」「これが私である」と言い切れるものごとなど一切ないという「空の思想」になるのです。さらに、物質だけではなく、私たちの悩みや苦しみといったものもやはり「縁起し空である」以上、いつまでも永遠に続くわけではない。

その「縁起の法則」と「空の思想」を体得することが、無上の悟りである。もう少し簡単に申しますと、本来の自分に気がつき、それをそのまま受け入れることが無上の悟りなのです。それ以外に無上の悟りというものはあり得ないというのです。その体得の道(過程)を仏道修行と申すのです。

日本文化は「縁起」「空」そのもの


私たち日本人はその「縁起の法則」「空の思想」に気づき、忘れないようにするために、もののあわれ、わび、さび、幽玄、無常観などとよびました。さらに、それを文学や茶道、武道、生活様式にまで落とし込んだ、たぐいまれなる歴史文化を育んできたのです。

例えば着物には「おはしょえり」があります。そのおかげで少々背丈が違っても着ることができますし、子供の着物は肩を縫い上げ成長に合わせて着ることができます。帯は、ベルトのように穴はなく、太った人でも痩せた人でも締めることができます。履き物もかかとがないので多少の大きさは関係ございません。

座布団は坐るものですが、数枚並べれば子供の布団くらいにはなり、折りたためば枕にもなります。ふすまは壁でもあり、絵を描けばキャンパスにもなるし、外せば隣の部屋とひとつにしてしまいます。

物質だけではありません。私たちが話す日本語の会話では主語をあまり申しません。「ちょっと湯飲み取って」。これで私たち日本人は通じます。それがあなたの湯飲みを私にくださいなのか、あのコップを私にくださいなのか。主語や所有格をはっきり言わなくて言い文法になっています。

曖昧でいいんです

日本人はよく「曖昧だ」と外国人に言われます。そうです。それでいいんです。なぜならありとあらゆるものは「縁起し空である」以上、曖昧なのです。

「空の思想」では、「これがこれである」「これが私である」というような絶対的なものがあると言い切れないというのです。着物も、履き物も、座布団も、ふすまも、言葉も、まさに日本人の生き方は「縁起の法則」と「空の思想」を形にしたものなのです。

その「縁起の法則」と「空の思想」を説いた『般若心経』を、皆さんにわかりやすいように、私なりに日本語の現代語訳にしてみました。  新年を迎えるにあたり『般若心経』を日本語で、ぜひ声に出して、味わっていただけたら幸いです。(終)