普門軒の禅のミカタ

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作為的な計らいを止めよ

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余計(餘計) 余分と余計の違いをご存じですか。「余」という字は、旧字体で「餘」と書き、食べ物の意の食と、のびるという意の余からなり、「食べ余し」というのがその語原です。

作為的な計らいを止めよ

余分とは"ものの量が余る”
余計とは"ものごとに対してとった判断、処置が余る"

余分の「分」は「分量」の意ですから、余分は"ものの量が余る”という意味です。 一方は余計の「計」は「計らい」の意ですから、”もの”だけでなく”事”や”人”に対しても使います。余計とは"ものごとに対してとった判断、処置(行為)が余る"という意味と私は思うんです。

禅が言う”余計なことはしない”とは、「作為的な計らいを止めよ」ということで、自然のまま、本来の従うと同じ意味です。これを〈無為〉といいます。

無駄なモノと余計なモノ 余計なものと無駄なもの。

この違いは何でしょう。

「無駄」とは役に立たないこと。それをしただけのかいがないことを言います。「駄」は馬に荷物を積み重ねている意味です。つまり馬に荷物を乗せることができないということが「無駄」という語原です。ですから「無駄なもの」とは役立つかどうかということが観点なのです。

減らすことで本当に大切なモノを見抜く

減と禅ですが、六祖慧能は本来無一物とおっしゃいました。モノを減らす。減らすことと禅は深い関係があります。「水墨画」という絵をご存じかと思います。唐代にできた墨絵の一様式で、ぼかしで濃淡・明暗を表す絵画です。日本へは鎌倉時代に禅とともにその技法が伝えられました。

その水墨画の技法に「減筆法」があります。最小限の筆数で絵を描くのです。複雑なものを省略し簡略化して描くことにより、逆に主題(本質)を際立たせて表現するのです。

これも複雑な社会を簡略して、本当に大切なモノを見抜く。「減らす」ということは、実はネガティブな事ではありません。

減らすことモノだけではない

実は「減らす」というのはモノだけではありません。いろいろお宅に寄せていただく機会が多いのですが、私が気になることにいろいろな生活音がすることです。テレビやラジオ、ゲームの音、湯が沸けばメロディーが流れます。

普門軒の場合で言えば、確実に鳴っている音は、捲き時計と手水鉢の水の音、冬ならば蒔きストーブの蒔や囲炉裏の炭の音くらいです。 静かであるということは、音を減らしていることデモあります。余計な音を減らすことによって、本当に大切な音が聞こえてきます。禅の暮らしにおいて、とても大切な要素です。今日はひとつ、テレビのスイッチを入れない日にしてみてはいかがですか。