普門軒の禅のミカタ

なぜ禅は世界から注目されているのか【月・金の朝更新】

禅の修行は差を取る修行

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ちまたには「自分を変える方法」とか「自分を変えたいためには」などの文言をよくみかけるようになって、久しいものです。禅もその一つの方法と見られておりますが、実は禅は違うのです。

本来と理想の差を取っていく

禅はさとりの修行

禅は「自分を変える」のではなく、まずは「自分に戻す」と言っていいと思います。自分に戻す。日本語としては少す違和感を感じるかもしれません。何度もお話ししているように、日本語には理想という言葉がありませんでした。つまり禅にも理想というものはないのです。禅にあるのは「本来」です。

ちまたでみる本やセミナーは外にある理想的な姿に自分を変えていかなくてはなれないのかもしれませんが、それは違います。

自分は貧乏であったこと。自分は病弱であったこと。自分は学歴がなかったこと。

「自分は貧乏であったこと。自分は病弱であったこと。自分は学歴がなかったこと」。

松下幸之助氏さんは「一代で世界企業にした成功の秘訣は」、との質問に対しての答えが上記の言葉です。氏は「貧乏」であったから一所懸命に働き、「病弱」であったから摂生に努め、「無学歴」であったから勉学に励んだということです。

仏教では、 自分という「存在」があり、自分というの存在には「本質」があり、その存在と本質には「能力」があり、その存在と本質と能力には「働き」があるととらえます。その存在と本質と能力と働きによって、自分に起こりうる現象、事象の「直接的原因」がつくられるというのです。

その自分という直接的原因と、自分をとりまく「間接的原因」によって、自分に起こる現象、事象の「結果」が生まれます。さらにその結果によって、自分のまわりに起こる「影響」が生まれるというのです。

本来を見極め、素直に受け止め、差を取る

禅の修行は、自分という存在の本質と能力と働き、を見極め、それを素直に受け止めることにあり、そしてそれを磨くことにあります。この直接的原因を日常の言葉に言い換えると、「本来」となります。

しかし現代に生きる私たちの多くは、直接的原因=本来ではなく、自分の外にある間接的原因の方を気にしてしまい、間接的原因のみによる自分を理想像として描いてしまいます。私の立場から見ると、それは違いますよとなります。その本来と理想のギャップ(差)は悩み、苦しみになりますよと。

私の師匠筋に当たる盛永宗興老師は「さとり」とは、「差を取る」ことだとおっしゃいました。「差」とは何でしょう。本来と理想のギャップ=差です。差を取る修行が禅の修行です。