普門軒の禅のミカタ

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習慣と言うこと

f:id:fumonken:20201109105504j:plain禅のいう「穏やか」とは最小限で満足できることです。では穏やかな生き方を得るための習慣とは、ズバリ余計なことはしないことです。あれやこれやと余計なことを比べたり、調べたり、考えたりしない。目の前のことに没頭するのです。文字通り、頭を没するというのです。「今」という瞬間を一所懸命に過ごすのです。

習慣って何だろう

ひな鳥が幾度も羽を羽ばたかせて練習するように

新しい決まり事を「習慣」にしていくことはなかなか難しいものですね。「習」という字はひな鳥が幾度(白は重ねるという意)も羽は動かして飛ぶ様を表し、ひいて習うという意になりました。 「慣」という字は心を表す《忄》とつかみ重ねる意の《貫》からなります。「習慣」とは、単に決まり事を繰り返してこなすのではなく、”心”に繰り返し重ねて慣れるという意になるのです。

ですから「習慣」にしていくためには大切なことが一つあります。それは「心がけ」です。その習慣を心がけることがとても大切です。 

余分と余計

計らいをやめよ

「余分」と「余計」の違いをご存じですか。「余」という字は、旧字体で「餘」と書き、食べ物の意の食と、のびるという意の余からなり、「食べ余し」というのがその語原です。 ​ 余分の「分」は「分量」の意ですから、余分は"ものの量が余る”という意味です。

一方は余計の「計」は「計らい」の意ですから、”もの”だけでなく”事”や”人”に対しても使います。ですから余計とは"ものごとに対してとった判断、処置(行為)が余る"という意味と私は思うんです。 ​ 禅が言う”余計なことはしない”とは、「作為的な計らいを止めよ」ということで、自然のまま、ありのまま、本来の従うと同じ意味です。これを「無為」というのです。

それでは「余計なもの」と「無駄なもの」。この違いは何でしょう。「無駄」とは役に立たないこと。それをしただけのかいがないことを言います。「駄」は馬に荷物を積み重ねている意味です。つまり馬に荷物を乗せることができないということが「無駄」という語原です。ですから「無駄なもの」とは役立つかどうかということが観点なのです。そういう点で、仏教ではよく、この世の中に無駄なものはないと申します。

余計なこと、無駄なこと、もったいないこと

無駄なものはないからもったいないことをしない

えっそうかなと思われる方。それは「無駄」と「もったいない」が錯綜してるかもしれません。この世に無駄なものはないから、もったいないことをしてはならないのです。ですから無駄遣いをしないというよりは、余計なことをしないという方が仏教的ですね。

例えば、日本間にある「床の間」。今では無駄なスペースのように思われて、床の間のない生活空間で生活している人が圧倒的でしょう。でも床の間とはいうなればおうちの聖域です。花を飾ったり、掛け軸をかけたりしましょう。余計な物を置かずに、落ち着いた、清浄な場な空間です。そこはいつも掃除をしてきれいにします。床の間はあまり明るすぎないようにしてください。床の間は心の表現をする修行になります。子や孫にもその美意識が伝わっていくはずです。床の間は一見無駄なような空間でも余計なものではありません。