普門軒の禅のミカタ

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心は万境に随って転じ、転処実に能く幽なり

f:id:fumonken:20190822125459j:plain「したがう」。現代社会では敬遠されがちな言葉ですね。「したがう」という言葉を聞けば、一般的「従う」という言葉が浮かぶのではないでしょうか。

"したがう"ということ

従うのでも、遵うのでもなく、随う

上司に従うだけの俺のサラリーマン人生か。法律に遵うだけのせせこましい社会か。近代人においては「したがう」という語彙には、何かへの従属や何かからの服従といった否定的な意味合いがありますね。

確かに「従」という漢字の正字(旧字体)「從」は道を行くという意の「辶」に「人人」が書かれておるとおり、「人にしたがう」という意味となります。また「遵う」という言葉もある。「辶」と、うやまうという「尊」からなり、「敬うべきものにしたがう」という意味となります。

禅の「したがう」は、上記の字を用いません。

禅の言う「したがう」は「随う」という字を用います。「随」の正字「隨」は、神が用いる梯子「阝」と、祈りに使う道具とそれを持つ手「左」と、神に奉げる肉「月」に、「辶」からなる字です。神の決まったやり方の通り「道理したがう」という意味となります。

道理に遵い、そして順う

禅の修行には多くの決まりがあり、多くの型に「したがう」。もちろん先輩や指導者の言うことにも「したがう」。しかし禅者はその決まりに遵うのではなく、先輩や指導者に従うのではない。その決まり、言葉の真相にある道理に「随う」のです。それはただ「道」に随うのです。これは禅者の「したがう」という態度の心根です。だから「随う」ことは否定的な意味はまったくありません。

「エッセイ」という言葉が英語にはあります。「essay」と書きます。日本語ではエッセーとか、随想、そして随筆と訳される場合もあります。「essay」はもとはフランス語の「essai」から来ました。 フランス語で「essai」は試しとか、試作、試験という意味で、英語ではtry、trial、testと訳されます。 この「essay」を随想、随筆と訳していいのでしょうか。 随筆。文字通りに見れば、筆に随う(したがう)ということです。試すといったように能動的な意味はありません。むしろ筆に随う、筆にまかせるわけだから受動的である。 筆に随う。いかにも日本的な「試み」といえないでしょうか。

そういう意味でも、「随う」とは、むしろ積極的に「随う」のであり、随わなければならないのです。 禅に限らず、大工や左官、書道や武道、畑仕事に仏事に至るまで、以前の日本人はみんな、先輩や型に従っていたのではなく、随っていたのである。道理に随えばいいのである。

その道に随った先には、もう道(辶)は消え去り、素直なという意の「川」と顔を表す「頁」、逆らわずに、おだやかに「順う」という境地につながっていく。

「心は万境に随って転じ、転処実に能く幽なり」

『伝灯録』