本性のままで大道と一致し、ゆらりゆらりとのんびり歩いて何の悩みもなくなる。心を一つの対象にくくりつけると真理にはぐれ、心が沈みこんで自由を得ぬ。自由を得ぬから精神をすり減らすのである。どうして道に遠ざかったり、近づいたりする必要があろうか。同じ一つの乗り物を手に入れたいと思うなら、六官の対象に逆らってはいけない。
続きを読む信心銘の話〈その11〉
大道はそれ自体が広々としていて、歩きやすいとか歩きにくいとか言うことがない。考えの小さい人は小さいことを心配して、道を急げば急ぐほど、いよいよ道が遠くなる。物にとらわれると尺度を失い、きっと間違った道に入り込むものだ。手を離せば、元々自然で、道そのものは行くこともとどまることもない。
続きを読む日本人として生きたい
私がこの道に進んだ目的は「日本人として生きたい」ということでありました。私は昭和47年の生まれですから、いわゆる戦後教育を受けてしまった世代です。
続きを読む信心銘の話〈その10〉
主観は客体が消えるとともに消え、客体は主幹が亡くなるのに伴ってなくなる。客体は主観に対して客体であり、主観は客体に対して主観である。両者の区別を知りたければ、もともと同一の空だと知れ。同一の空がそのまま二つの部分と変わらず、あまねく無数のすがたを包んでいる。精緻と粗雑の差もないのに、どうして一方だけの片よりが認められようか。
続きを読むお坊さんは何で丸坊主なの?
貪・瞋・癡(とん・じん・ち)とは、仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩を指し、人間の諸悪、苦しみ、悩みの根元です。三毒ともいいます。
続きを読む信心銘の話〈その9〉
相対は、絶対から出てくるものだ。絶対をも固執してはならない。心が起きさえしなければ、どんな存在にも罪はない。罪がなければ存在はないし、起きなければ心にはならぬ。
続きを読む存在には本質があり、能力があり、働きがある
私には尊敬する道場の先輩がいます。その方が住職をしておられるお寺には禅堂といって坐禅のためのお堂があります。実はそのお堂は松下幸之助氏によって建てられた禅堂です。
続きを読む教える、諭す、親しませる
先生のことを教諭といいます。最近あまり聞かれなくなった言葉に、「諭す(さとす)」という言葉があります。読めない人もいるのではないか。代わって「教える」という言葉は頻繁に使われています。
続きを読む信心銘の話〈その8〉
根本にたちもどると秘密が手に入るが、映されたものを追うならば大本を見失う。ほんのしばらくでも、こちらの方が映されたものを押し返させば、眼前の空虚な世界の上にでてしまう。眼前の空虚な世界がくるくる変わるのは、すべて迷いのせいだ。心理を探すには及ばない。ただ君の考えをストップさせればよろしい。相対の考えに腰を据えてはならぬ。ゆめゆめそんなものを追い求めてるではないぞ。よしあしが現れたとたん、入り乱れて本心を見失うのだ。
続きを読む信心銘の話〈その7〉
一つのところに達しなければ、両方とも失敗だ。 有るものを払いのけると何にもなくなってしまい、空についてゆけば空を見失う。 説明が多く分別が多いほど、いよいよ事実にぴったりしない。 言葉を断ち分別を尽くせば、どこも普遍妥当せざるはない。
続きを読む信心銘の話〈その6〉
一つのものとして心が落ち着くと、あとかたもなく自然に何もなくなってしまう。心が騒ぐといって静止させることになれば、静止させるほどますます心は騒ぐ。動と静の両端にかかわりあうだけのことであり、どうして一つのところがわかろうか。